黒田寛一は、『実践と場所 第三巻』において、おのれの価値意識について次のように語っている。

 「論件先取であると否とにかかわりなく、《いま・ここ》において音を見つつ()ぎ、匂を聞き見るとともに味わい触れ、漆黒の世界を内観しつつ、苦悩しながら変革的意志をもえたぎらせているこの私という実践主体、この社会的=価値的意識を起点にすることによってのみ、人間存在に固有な社会的意識の価値性あるいは価値的意識は論じうる、というように私は考える。」(205頁)

 ここで黒田は、「漆黒の世界を内観しつつ、苦悩しながら変革的意志をもえたぎらせているこの私」というように、おのれの烈々たる変革の意志を溶出させ表明している。彼は、まさに、おのれを語っている

 だがしかし、黒田は、これに直続して次のように論述している。これはどうなのであろうか。これは、彼がおのれを語っているものなのであろうか。

 「系統発生的にも個体発生的にも歴史的産物であるところの人間脳髄の構造および機能、これを物質的基礎とし、もろもろの実践および意味づけされた体験の内面化をつうじて創造されたのが、人間個々人の社会的価値意識である。しかも、生活場の社会的特殊性に決定されたエスニシティの社会的特殊性をみずからのうちに体現しているところの社会的諸規範(言語的表現にかんする規範をふくむ)をば実践的に内面化しているがゆえに、社会的価値意識は「社会的に共通な」という被規定性を有っているのである。このようなものとしての価値意識をまさに自明の前提として、実践し感覚し情感し認識し思惟する社会的存在の意識の働きは把握されなければならない。」(同前)

 ここで論じられているのは、黒田その人の価値意識ではない。それは、「「社会的に共通な」という被規定性を有っている」「社会的価値意識」ということなのであるからして、現代社会に生きている人間に共通な価値意識である。それは、ブルジョア的人間個々人の価値意識である。しかも、「生活場の社会的特殊性に決定されたエスニシティの社会的特殊性をみずからのうちに体現しているところの社会的諸規範(言語的表現にかんする規範をふくむ)をば実践的に内面化している」ところの価値意識だ、ということなのであるからして、それは、現代の日本人個々人の価値意識である。

 はたして、こんなものを自明の前提として、実践し感覚し情感し認識し思惟する社会的存在の意識の働きを、われわれは把握することができるのであろうか。黒田は、おのれのもえたぎる変革的意志を、したがって、われわれは、このわれわれの・この私の・もえたぎる変革的意志を、すなわちわれわれのこの価値意識を、まさに自明の前提としてこそ、実践し感覚し情感し認識し思惟する社会的存在の意識の働きを把握することができるのではないだろうか。

 私が引用した後半部分を書くことによって、黒田は、自分自身が、人生のどん底につきおとされたおのれに苦悩しながらマルクス主義を学習し、『ヘーゲルとマルクス』『社会観の探求』『プロレタリア的人間の論理』を書くというかたちで、自己を変革し自己の思想をつくりあげプロレタリア的価値意識を獲得してきた、というこのおのれの思想的格闘をふりかえり明らかにすることを、社会的人間存在の価値意識と意識の働きにかんする論述から除外してしまったのである。

 これでは、『第三巻』のテーマである「場所の認識」にかんして解明することはできないのである。

 人間社会の本質論のレベルで論じるのであるならば、共同体的人間存在であるわれわれが外的自然を変革するという、われわれの変革的意志を、すなわちわれわれのこの価値意識を、われわれは出発点としなければならないのである。現代社会においてある人間の認識というレベルで論じるのであるならば、プロレタリアであるわれわれがこの資本制的現実を変革するという、われわれの変革的意志を、すなわちわれわれのこのプロレタリア的価値意識を、われわれは出発点としなければならないのである。

 黒田は、変革的意志をもえたぎらせているこの私を起点とする、というように表明したにもかかわらず、ブルジョア的人間個々人・あるいは・日本人個々人に共通な社会的価値意識というようなものをもちだすことによって、当初において起点とするとしたところのものを否定してしまったのである。おのれをふりかえるということから言えば、黒田は、どん底のおのれに苦悩しながらプロレタリア的人間へとおのれを変革してきた・このおのれの思想的格闘と自己脱皮に目をつむり、そうすることによって、この自己変革を省みて教訓として明らかにすることを、それ以前のおのれ・すなわち・日本のエスニシティを内面化してきたおのれを想起し記述することに還元したのだ、といわなければならない。

 このような論じ方を、すなわち、階級的観点にたって論述したうえで、これを、日本人という観点にたって語ったところのその後の展開によってひっくりかえす、という論じ方を、黒田は、もっと具体的なことがらについての叙述においてもおこなっている。この論じ方が、黒田の駆使する方法となっているのである。

 まず、黒田は次のように展開する。

 「いわゆる道徳律とは、地域的に特殊的な社会的場所とこれの時代に決定されて多種多様であり歴史的に可変的なものである。それぞれの時代に、それぞれの地域(または国家)において社会通用的な道徳律とされてきたものは、それぞれの時代・地域の支配階級的利害を体現したものであり、これまでの社会の支配体制のもとではそれぞれの支配階級にむすびついた道徳律が、つまり戒律や掟が、社会的人の道または人倫たらしめられてきた。「支配的な思想は支配階級の思想である」のと同様に、支配階級的道徳が全社会に妥当させられたところの社会的規範、つまり社会的通用規範なのである。したがって支配される階級の道徳というべきものは、現存支配秩序からの逃散と忍従という名の面従腹背でしかなかったといってよいであろう。」(210頁)

 こう論じたうえで、黒田は、次のように展開するのである。これから論じる後半の展開を、「ところで他方」という言葉ではじめて、他の側面を明らかにしているという形式をとりながら、内容上では、上の展開を真っ向から否定するものとして、それに覆いかぶせてしまうのである。もちろん、上の展開から後半の展開への橋渡しは用意されていた。上の展開の最後の「支配される階級の道徳というべきものは、現存支配秩序からの逃散と忍従という名の面従腹背でしかなかった」というのが、それである。実際には、支配される階級の人びとには、支配階級のふりまく思想が貫徹され、彼らは強制された戒律や掟に従っていたのである。それを、面従腹背であったとすることによって、黒田は、日本人というようにひとくくりにした人びとの観念や価値意識が、支配階級がみずからの思想を社会全体に妥当させ貫徹したものではないものとして描いたのである。

 それが次のものである。

 「ところで他方、古代から今日にいたるまでの日本人は、天変地異や飢饉や疫病の流行などを、——蛇紋土器時代の人びとのアニミズムやシャーマニズムや祖霊信仰を伝統的メンタリティとしてうけつぎつつ、——荒ぶる神の「たたり」と観念し、この「荒ぶる神」を鎮める祈の儀式を慣習化してきたのであった。平穏無事がつづくことは、それゆえに荒ぶる神を「祀る」行事の賜であると観念し、このことを「かみのおかげ」と観念したのであった。この「荒ぶる神のまつり」と祖霊信仰とが合体して、日本人のメンタリティとエスニシティが形づくられたといってよい。日本人のメンタリティにおける八百萬神への信仰と「不信仰の信仰」(無―宗教)との共存共生は、二つの箴言——「苦しいときの神だのみ」と「神も仏もあるものか」のそれ——が共存していることのうちにもしめされている。そして、自然崇拝と祖霊信仰についての教義の欠損のゆえに、渡来した仏教や儒教や道教などの思想の中から、道徳的規範たりうるものが経験主義的に受容され、摂取され混淆され、日本人としての道徳的価値意識が日常生活に浸透して形づくられたといえるであろう。」(211頁)

 ここでは、日本人のメンタリティとエスニシティとされるものが、完全に、階級を超えるもの・歴史貫通的なものとして描かれ、これが日本人としての道徳的価値意識とされているのである。だが、「苦しいときの神だのみ」と「神も仏もあるものか」という箴言は、支配階級からの過酷な収奪と抑圧をうけた被支配階級の人びとが自己納得してこれをうけいれるように、当の支配者どもがふりまいた思想なのである。このようなものを社会的に共通な価値意識として、自明の前提とするのでは、そのようにした者は、実践し感覚し情感し認識し思惟する社会的存在の意識の働きを決して把握することはできない。そのようにした者は、プロレタリアートの自己解放の理論を明らかにするわれわれの認識=思惟の働きを決して解明することはできないのである。その者は、日本人という意識にとらわれ埋没したままの・疎外された人間の意識の働きを、ただ肯定的に表面的に把握することができるだけである。

 このような論理が駆使されつらぬかれている『第三巻』は、したがって『実践と場所』の全三巻は、その根底からくつがえされなければならない。この理論的作業の遂行は、われわれに課せられた任務である。

 

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