これからは、「ナショナリズム論ノート 第何回」とかとしないで、学習し思索したことについて、その都度、単発的に書いていくことにする。

 

 黒田寛一は『実践と場所 第一巻』の「社会の構成」という節の最初のほうで次のように論じている。

 「いうまでもなく、社会的自然は、これに先行する自然史の自己発展の歴史的に必然的な産物であるとともに、それに先行する自然史の全過程をみずからの内に包みこんでいる。場所的現在において包みこまれている自然史的過程が「社会における自然」とも呼ばれ、社会的自然の自然的側面をなすのである。このようなものとしてそれは、社会的=人間的存在にとっての環境を、つまり環境的自然をなすのである。このように自然をみずからの環境とする社会的自然という特殊的自然の根源的形態が《人間種属生活》にほかならず、そしてこの《種属生活》それ自身が社会的環境を構成するのである。この社会的環境と環境的自然との交互関係において運動することが、社会的物質過程の特殊性をなすのであって、この意味において社会的自然は《生産的生活世界》と規定される。環境的自然(「社会のなかの自然」)と社会的環境(社会的自然)とが、相互に決定し決定されつつ自己発展するのが《生産的生活世界》にほかならず、この世界の歴史的独自性ないし個別性は支配的生産様式によってあらわされる。

 基本的には、社会的な、したがって支配的な生産様式が、特殊的な社会的自然の歴史的独自性を決定するのであるが、具体的には、社会的自然としての経済的社会構成は、特定地域の環境的自然の気候的・風土的な性質(いわゆる土地柄、気候の違いや地形の起伏や土壌の肥沃度や水の多少などの、直接的に人間生活に作用する諸要因をさす)の特殊性に決定された生産=生活様式にもとづいて形成される。それぞれの地域の自然地理的諸条件に制約されつつ創出される生産=生活様式は、根源的には人間生活の生産の地域的特殊性をあらわすのであって、環境的自然への社会的人間存在の協同的働きかけが、彼らの生活様式の気候的・風土的特殊性を、したがって生産的および「人―間」的実践の個別性を直接間接に制約する。行為基準・規則・規範・慣習・風俗・言語規範が、したがって《文化》と呼称されるところのものの特殊性がうみだされるのである。

 自然史的過程の特殊的発展段階をなす社会史的過程、その原理が《人間生活の生産》であって、この《生活の生産》においてわれわれが生き協働し共苦する場所の本質は、この《生活の生産》にある。われわれであるところのわれが、そこにおいて生き死にゆく場所とは、現実にはつねにこの社会的場所なのである。しかも同時に支配的生産様式に決定された特殊的歴史性を刻印された社会的場所なのである。このような場所は、環境的自然(人間化され社会的反作用をこうむった自然、いわゆる「社会のなかの自然」、あるいは生産=生活様式の特殊性とこれにもとづいて創りだされた特定の文化の反作用をうけた風土的自然)と、これに働きかける「人―間」的関係としての社会的環境とを、基本的な構成契機とするのである。場所のこの社会性を人間存在の側から規定するならば、これは、人間の——言語的および非言語的表現を介しての——交わり行為としての実践と、環境的自然への協同的働きかけとしての生産的=技術的実践とからなるのである。」(404~406頁)

 この展開の後に、「共同体的人間存在」とか「《社会的生産関係》」とか「生産力」とか「いわゆる「生産諸力と生産諸関係の弁証法」」とかという規定がでてくるのである。ここにおいて、ようやくにして、黒田から学んだわれわれにとっては親しみのある展開になるのである。

 全体としてみるならば、黒田は、自分が若い時に論述した『社会観の探求』の展開の前に、ここに引用した三つのパラグラフをつっこんだ、ということである。あるいは、『社会観の探求』における人間社会の本質にかんする論述のなかに「特定地域の環境的自然の気候的・風土的な性質」という規定をおりまぜた、ということである。

 黒田がこのような論述をおこなったということの意味は大きい。とりわけ二番目のパラフラフである。

 ここでふれられている「気候の違いや地形の起伏や土地の肥沃度や水の多少など」は自然力にかかわるものであり、このようなことがらについて論じるときには、生産諸力にかんする規定が明らかにされなければならないのである。

 また、「経済的社会構成」にかんして論じるときには、社会的生産関係にかんする規定が、したがって同時に、生産諸力と生産諸関係の弁証法が明らかにされなければならないのである。

 さらに、「《文化》と呼称されるところのもの」について論じるときには、経済的土台と上部構造にかんする規定が明らかにされなければならないのである。

 私がいま挙げたような史的唯物論の基本的な諸規定を明らかにするまえに、「《文化》と呼称されるところのもの」について黒田が論じたということは、彼が、「《文化》と呼称されるところのもの」を超歴史的なもの=歴史貫通的なものとして、あるいはあらゆる社会に共通なものとして、描いた、ということを意味するのである。いや、黒田は、「《文化》と呼称されるところのもの」をこのようなものとして描くためにこそ、このような論理展開をおこなった、論理的構成をとったのだ、といわなければならない。《文化》と呼称されるところのものを、支配階級がみずからの特殊的諸利害を一般的なものと妥当させるということ、すなわち支配階級が虚偽のイデオロギーを生産するということとは無関係に論じることを、黒田は意図した、といえるのだからである。

 このことについては、後でたちもどる。

 引用した部分にかんしてさらに言えば、第一パラグラフでは、「この社会的環境と環境的自然との交互関係」というように、「共同体的人間存在」とすべきところが「社会的環境」という規定にとって換えられているのである。この「共同体的人間存在」という規定もまた、私が引用した三つのパラグラフの後にでてくるのである。また、「《人間種属存在》」という規定をぬきにして「《人間種属生活》」という規定があたえられているのであり、前者の規定もまた、後ででてくるのである。

 第三パラグラフでは、「《人間生活の生産》」という規定が明らかにされているのであるが、生活=生産諸手段の生産と人間の生産とがその人間生活の生産の二契機をなす、ということは論じられていないのである。人間の生産について論じないままに、「人間の——言語的および非言語的表現を介しての——交わり行為としての実践」ということが論じられているのである。経済的土台と上部構造にかんする規定をぬきにして「生産=生活様式の特殊性とこれにもとづいて創りだされた特定の文化の反作用をうけた風土的自然」ということが論じられている、ということについては、先にのべたことと同じである。ここでの黒田のように論じるのでは、「生産=生活様式」という規定も、「文化」という規定も、社会学的なものとなっているのである。

 ここで、《文化》と呼称されるところのものについての規定にたちもどる。

 文化については、次のようなことがらが論じられている。

 「西暦紀元前五、六千年にインダス川や長江・黄河の河口付近において栄えた文化が、なぜ衰亡したのか。紀元前五、六世紀にすでに形づくられていたバラモン教・ヒンズー教・仏教など」が、「原始古代=大和王朝時代に輸入され、鎌倉・戦国時代をつうじて、こうした渡来思想は広く悩める民衆に伝播して民衆の生活の智慧ともなった。」(585~586頁)

 「紀元前五、六千年のナイル川とチグリス・ユーフラテス川の河岸にひらけたエジプト文化やメソポタミア文化が衰退し、また奴隷制がギリシアの都市国家に栄え、そして近代ヨーロッパ技術文明の源となった学問・文化がその発祥の地においては滅亡し、インド・中国と西域(ペルシア―ギリシア)との交点をなしていたパキスタン北部地域において繫栄したガンダーラ文化もまた、文化遺産を残して滅び去った。中部アメリカのユカタン半島あたりに紀元前三世紀以降に栄えたマヤ文化もまた、同じような運命をたどった。」(586頁)

 《文化》と呼称されるところのものにかんして、このようなものを念頭におくのであるかぎり、支配階級と被支配階級との対立を、そして支配階級が虚偽のイデオロギーを生産するということを考察することをぬきにして、そのようなものを分析し明らかにすることができないのである。

 黒田のこの論述は社会学的なものとなっている。

 「原始古代=大和朝廷時代」と表現したのでは、原始共同体=原始共産制をなす縄文時代と、階級社会をなす大和朝廷時代とを、意図的に連続的につなげ混然一体とさせているかのようである。

 

 

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