八 若き自己の全否定、すなわち疎外論の放擲と歴史主義

 

 

 黒田寛一は言った。

 「こうした「らしさ」を、すなわち、それぞれの地域の風土的特殊性にも規定されつつ成立するところの、階級社会において生き働いている人びとにみられるメンタリティの共通性や習慣・風俗・習俗の共通性を、対象的に規定した概念が、精神的風土であるといえる。この精神的風土は、これそれ自体がそれぞれの社会の地域的特殊性を帯びた「人―間」的諸関係の歴史的産物なのであって、歴史的社会的被制約性を刻印されながらも相対的に安定的な、人間的自然存在の自然的側面にかかわる概念なのである。」(『実践と場所 第一巻』552頁)

 黒田は、この言葉を発したことにおいて、若きマルクスの「疎外された労働」論の研究をとおしてみずからのうちにつくりあげてきた立脚点を、すなわちみずからの疎外論と場所的立場を捨て去った。歴史主義に転落した。

 黒田は言っていた。「マルクスの「疎外された労働」論は、私の実存そのものである」、と。『実践と場所』を書いた黒田は、おのれのこの実存そのものを捨て去ったのである。

 若き黒田にとっては、この私とはプロレタリアであった。場所的現在に生きるプロレタリアであるこの私が、つねに彼の出発点であった。プロレタリアであるこの私は、おのれの労働を疎外された労働として自覚し、この疎外された労働の根底に労働の本質形態をつかみとり、これをおのれ自身の種属本質としてこれの実現を決断したのである。若き黒田にとって、人間とは、プロレタリアであるおのれの根底につかみとったところの種属存在としての人間なのであり、この種属存在としての人間が人間歴史の出発点をなす、というように、彼は明らかにしたのであった。

 いまや、黒田はこのおのれ自身を破壊したのである。若き自己を全否定したのである。

 『実践と場所』の黒田は、プロレタリアであるこの私を出発点とすることを回避した。この著書の黒田は、「太古の昔(約数十万年前)からこの日本列島に居住し働き生きつづけてきたヤポネシア人」(555頁)をおのれの出発点とした。このようにするならば、プロレタリアであるこのおのれを、「先史時代から永きにわた」る(551頁)永い永い歴史的過程に埋没させることができるのである。そして太古の昔から現在までを鳥瞰した「日本民族」(555頁)の高みにたって、「利潤追求を自己目的化したり投機にうつつをぬかしたりしている徒輩も、労働力商品としての自己存在についての自覚をもってはいない賃労働者も、階級の違いをこえて、日本人らしさを喪失しているのではないか」(554頁)、と嘆くことができるのである。これを書いた黒田は、すでに階級の違いをこえる立場にたっているのであり、この彼にとっては、賃労働者が労働力商品としての自覚をもっていないことよりも、資本家も賃労働者もが日本人らしさを喪失していることのほうが、重要なのである。

 この黒田は、「階級社会において生き働いている人びと」の「精神的風土」というように、これらの人びとの精神を問題としてとりあげながらも、この精神をみずからのうちにつくりだす階級そのものを、階級的人間そのものを措定しない。

 「精神的風土」を「それぞれの社会の地域的特殊性を帯びた「人―間」的諸関係の歴史的産物なのであって、歴史的社会的被制約性を刻印されながらも相対的に安定的な、人間的自然存在の自然的側面」と規定するかぎり、この規定は完全に超歴史化されており、「精神的風土」は歴史貫通的なものとみなされている。一見すると「歴史的社会的被制約性」というかたちで階級的規定性が問題にされているかのようなのであるが、実はそれは、階級がでてこないところの「「人—間」的諸関係」の、「地域的特殊性を帯びた」「歴史的産物」ということなのであって、結局のところ「地域的特殊性」に還元されたものなのである。しかも、その「精神的風土」は、「相対的に安定的な」ものというかたちで、あらゆる社会形態に共通なものとみなされているのであり、さらには、「人間的自然存在の自然的側面」というように、それは、人間社会からその社会的側面を捨象してつかみとられるところのその自然的側面として、人間種属の共同体と外的自然との技術的関係の規定として、あるいは、それから社会性をも捨象してつかみとられるところの「全=個」をなす人間と自然との技術的関係の規定として、概念的に規定されたのである。ここにおいて明確に、現代社会におけるブルジョアジーとプロレタリアートとの階級的対立は抹殺されたのであり、この私はプロレタリアである、というおのれのプロレタリア的実存は破壊されたのであり、この私は日本人となったのである。

 このように論述をみちびいていく黒田の手法は、「太古の昔から日本列島に住みついたヤポネシア人は」というところから説き起こしていくことである。このようにするならば、「太古の昔」なのだから、社会形態としては原始共同体を、すなわち原始共産制を想定することができる。そして「日本列島に住みついた」ということなのだから、地理的限定をもうけることができる、すなわち、日本列島という地域的特殊性のもとにあった原始共同体を想定することができる。さらに「ヤポネシア人」なのだから、今日のブルジョア社会において日本民族という規定をうけとっている人びとないし人種を想定することができるのである。ようするに、今日のブルジョア国家・日本において日本民族と規定されるところのものを遠い過去にたおして、今日の日本の人びとにその血が引き継がれる人びとが現存在した、というようにあらかじめ設定し、自分があらかじめ設定したところのものから、黒田は説き起こすのである。このばあいに、設定した太古の人びとの社会は、階級のない社会であることを、黒田は前提とするのであるが、その社会形態は何であるのか、ということを規定しない。その社会形態は、無階級社会であるとか、原始共同体であるとかとは規定しないのである。そして、いつの間にか階級社会について論じていくこととするのである。このような論じ方をするのは、もしも太古の人びとの社会が原始共同体をなす、というように規定するならば、この共同社会が階級社会に転換することを、すなわち階級が生みだされることを論じなければならなくなるからである。すなわち、階級社会について論じるばあいに、この社会における支配階級と被支配階級との対立を明らかにしてこの対立を論述するのではなく、諸階級に共通するものとして民族性ないし国民性というものを理論的に設定するためには、黒田は、太古の昔からの地域的特殊性を刻印されたところの社会の連続的発展という像を描く以外になかった、ということなのである。

 だが、これは、自分自身が探究し叙述してきたところの『ヘーゲルとマルクス』の、『社会観の探求』の、そして『プロレタリア的人間の論理』の破壊なのである。このように探究してきた主体たるおのれそのものの破壊なのである。

 

 

 私のメールアドレスは、nbkitai@yahoo.co.jp です。

 私に連絡をとる方は、このアドレスにメールを送るようにお願いします。

 私に手紙をくださる方は、本に書いている住所に郵送してください。

 本をもっていない方は、メールを送ってくだされば、住所をお伝えします。

 

 革共同革マル派(探究派)のブログも見てください。

 「探究派公式ブログ」:

 https://tankyuka.hatenablog.com ででてきます。

 

 「プラズマ現代叢書4」の松代秀樹編著『松崎明と黒田寛一、その挫折の深層 ロシアのウクライナ侵略弾劾』(プラズマ出版、251頁、定価2200円)が、書泉グランデ4階、紀伊國屋書店新宿本店、ジュンク堂書店池袋本店5階・大阪本店・難波店・三宮店・明石店・福岡店・那覇店・名古屋栄店、MARUZEN&ジュンク堂書店札幌店、丸善丸の内本店・京都店・広島店、模索舎、早大生協図書館店、東大生協本郷店、国学院大学生協など、全国主要書店で販売されています。

 「プラズマ現代叢書 1」の松代秀樹編著『コロナ危機との闘い 黒田寛一の営為をうけつぎ反スターリン主義運動の再興を』、「プラズマ現代叢書 2」の松代秀樹・椿原清孝編著『コロナ危機の超克 黒田寛一の実践論と組織創造論をわがものに』、「プラズマ現代叢書 3」の松代秀樹・藤川一久編著『脱炭素と『資本論』 黒田寛一の組織づくりをいかに受け継ぐべきなのか』、野原拓著『自然破壊と人間 マルクス『資本論』の真髄を貫いて考察する』、野原拓著『バイト学生と下層労働者の「資本論」 脱炭素の虚妄』と合わせて読んでください。

 くわしくは、「プラズマ出版」のホームページを見てください。