デマ宣伝連載をとおして「革マル派」中央官僚派がついに対応できなかったものは何か——黒田寛一の松崎明へのこの批判は正しいか

 

 「革マル派」中央官僚派はわが探究派へのデマ宣伝を8回も重ねてきたのであった。だが、彼らは、われわれが革マル派組織建設の挫折の根拠として明らかにしたことに何一つ自己の見解を表明することができなかった。

 その一つは、松崎明への黒田寛一の次の批判は正しいのか、ということである。

 黒田寛一『組織現実論の開拓 第二巻 運動=組織論の開拓』(あかね図書販売)に、黒田が一九六四年三月にテープに吹きこんだ「革マル派結成以後一年」という口述論文が収録されている。

 そのなかの「C ケルン主義からの決別」という節において、黒田は次のように語っている。

 「C産別委員会〔国鉄委員会〕が直面している問題、これは一言でいうならば、従来の組織づくりのやり方からの転換がまだなされていない、あるいはそれについて無自覚な部分がある。これはどういうことかというと、はっきり言ってしまうならば、組合運動とケルンづくりとが二元的に分離する傾向がなきにしもあらずである。この傾向を一面的に極大化した場合には、野島三郎や山谷洋などがC産別委員会の同志たちに投げつけた非難、つまり〝彼らは永遠に組合主義者として、左翼的組合主義者として終わってしまうであろう〟というような非難が出てくるわけだ。そして野島は、面白いことには、こういう組合主義的な傾向があらわれている同志たちにたいして、それをいかに克服してゆくかという内在的批判をおこなうことなく、むしろ地区の党建設にかかわることによって組合主義的偏向を打開するというふうに問題をたてたわけだ。」(二五四~二五五頁)

 ここで、黒田寛一は、倉川篤である松崎明を先頭とする国鉄委員会の同志たちを「こういう組合主義的な傾向があらわれている同志たち」と批判しているのである。

 だが、1962年から64年の松崎明は、はたして、組合主義的傾向におちこんでいたのか。1960年代末から1970年代の、助士廃止反対闘争、反戦・反安保闘争、マル生粉砕闘争、合理化反対の順法闘争、スト権ストなどの、かの「鬼の動労」の諸闘争を創造しえたのは、1960年代前半に、松崎明を先頭とする国鉄委員会の同志たちが、諸闘争をとおして動力車労組内にわが反スターリン主義組織とその組織的および大衆的の基盤をつくりだし確立してきたからなのではないだろうか。

 もしも、1960年代前半に、松崎明を先頭とする国鉄委員会の同志たちが組合主義的傾向におちいっていたのだとするならば、上のような闘いが実現されることは決してなかった、と私は考えるのである。

 「革マル派」中央官僚派のメンバーたちは、私のこの主張にたいして、自己の見解を表明してみよ。(自分の意見をつくりだすためには、『松崎明と黒田寛一、その挫折の深層』の112~113頁とその前後を読み考察することが必要である。)