2022年1月、暑ぅ~、真夏のニュージーランドです。
祝 海外生活25周年
を勝手に記念し、今までの道のりをお送りしております(^O^)/
弱くて海外生活は無理だと言われていた私の、
語学力もスキルもない私の、
海外移住物語です。
初回からはこちら↓をご覧ください。
*韓国編は少々内容がしんどくなっています。
20年ほど前の事ですが、不快に思われる方がおられましたらごめんなさい。
また、私には韓国の良さを教えて下さったブロ友さん方がいます、批判的なコメントは控えて頂けるとありがたいです。
2000年11月1日。
96年にワーホリで入国し、4年間過ごしたカナダを離れ到着したのは、韓国、金浦空港。
韓国ー日本間のワーホリ制度はありましたが私はすでに全世界のワーホリが取れない年齢になっていました。
念のためオマケでなんとかならないか問い合わせた韓国大使館からも
「(31歳でワーホリは)とんなことをしても、じぇったいに、ためーーーー」
と言われたので学生ビザを取得するための学校探しで1か月間滞在し、その後日本に帰り学生ビザを取得しました。
2001年2月、ハードな韓国生活の幕明けです。
26年の海外生活の中で一番しんどかったかもしれません。
いや、絶対
ダントツでしんどかった。
滞在していたのはスウォン市、キョンヒー大学スウォンキャンパス(現国際キャンパス)の韓国語講座に通っていました。
学校は3月からなので2月は街をぶらぶらして過ごしていましたが、これが大変!買い物するにも一苦労です。
いきなりアメリカに行ったときも英語が話せたワケではなかったけれど看板に何が書いてあるかくらいは予想できました。
韓国語は「あいうえお」すらわからない状態で、看板はちと愉快な絵が躍っているようにしか見えないのです。
99年にカナダで1か月半通った語学学校時代の友人たちと会っている時だけが心休まる時間でした。
3月、新しい教科書やノートにワクワクしながら韓国語講座の始まりです。
生徒さんは日本と中国からの交換留学生がほとんどで、初日、国別で教室に入って手続き。
ちょうど「教科書問題」が起こった年で、韓国も中国もよく思ってはいないけど「教科書の事を聞かれても気にしないように」と日本語べらべらのチョンシク先生が説明してくれました。
「あいうえお」から学ぶ韓国語。
それは途方にくれた日々でした。
交換留学生はすでに自国で学んできているけれど、大学生でもない私を含めた3人は瞬時に落ちこぼれ(笑)
最初の頃は中国の子たちと筆談で会話をしていたくらいです。
「小丸子(ちびまるこちゃん)」とか「机器猫(ドラえもん)」もこの時覚えました。
それでも習った単語を繰り返し会話が少しづつ出来るようになると楽しくなってきました。
先生たちは熱心にとても親切に教えてくれます。
交換留学生たちとの一向に埋まらないレベル差を気にして時間外に特別授業をしてくれた先生もいました。
学校の授業はさまざまで映画を見たり、音楽を聴いたり社会見学に出る時もありましたし、キムチづくりの授業もありました。
映画の内容などほぼ理解できなかったのに、この時見た「JSA」は私の一番好きな映画です。
しんどかったのは授業ではなく文化の違い。
4年間カナダで暮らしどんな状況でも耐えられると思っていましたが、多国籍民族の国から単一民族の国への転居はそんなに甘いものではなく、カナダでは韓国の文化を守ろうとしていた友人たちはあんなにも愛おしかったのに、自国で韓国の文化を守ろうとする人たちがどうしても押しつけがましく感じてしまう。
韓国講座1学期目は、言葉もおぼつかず文化にも慣れない葛藤が続きました。
なぜピザ屋で頼んだドリアのゴハンがキムチチャーハンなのか、なぜイタリア料理店のテーブルにキムチ壺なんだ。
学食にあるものはすべて赤く、すべて辛い。
私は学食で毎日のようにカルククスというそうめんのようなモノを頼み、キムチは洗って食べていました。
道路のあちこちには痰が吐かれておりジーパンの裾をつまみ上げて歩かなくてはならないし、喫煙者である私は道行く人にきつく非難される事もありました。(当時の韓国ではまだ女性の喫煙はかなり珍しかった、皆トイレで吸ってたけど(笑)
それは学校の人たちとお花見に行った時でした。
皆で同じお弁当を食べたのに私だけ
食中毒
になったのです。
確かに、ちと変な味もしたのでそれを食べた私の責任もあります。
真夜中に嘔吐が止まらず立てなくなり学校の先生に電話し病院を教えてもらって向かいました。
付いてきてくれた人にすべてをお任せしましたが、その病院の様子に度肝が飛び散りました。
まずレントゲンを撮ります。
ただ点滴をしているので服を完全に脱ぐことができず後ろで持ってくれる人が必要になり、付いてきてくれた人がやったのです。
通常レントゲン室って普通の人が入れるものではないと思っていたので、この2ショットのレントゲン写真にびっくり。
そして尿検査。
日本だとトイレに小窓みたいなのがあるんですが、透明なコップを渡されそれを受付まで持って来て下さいと言うのです。
大勢の人が待っている待合室を抜けて(>_<)
さらに点滴をしている私は個室に入る事も出来ないので聞いてみると「個室に入らなくてもいいから」
へっ\(◎o◎)/!
私、、、初めてしましたよ、、、、便器のない所で(*ノωノ)
さすがにコップはトイレットペーパーでグルグル巻きにしました。
立食パーティーじゃあるまいし、「ビールもってきたよ~」的な感じで受付に持っていくのなんて無理っ!
廊下に並べられたベッドに寝そべり、隣をみれば間もなく旅立つおじいさん、反対側には半裸状態の妊婦さん。
こんな開放的な救急病院ある??
その様子は映画で見た戦時中の病院のようでした。
そのうちわっさわっさと人(ドクター&ナースですけど)がベッドの周りを囲み「この子日本人だって!」と、ずっとずっと「イルボンサラム(日本人)」を繰り返しています。
なんや韓国、どうした韓国。
こんな風に驚く事が重なり、次第に私は文化のひずみに落ちてゆくのです。
キムチ作り体験授業。
つづく。
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