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花*花は、人に思い出を作ってくれるパンダ。
本人は日々成長してゆき、前に進んでいる。
写真も撮らない。
お母さんとも離れても、特に、それを思い出したりしない。
人間が行動を制限しているが、このパンダに気にもとめない。
人はどうだろうか?
思い出に浸るのが好きである。
良い意味でも悪い意味でも、思い出を頼りに生きていたりする。
子供が成長して、子供が小さい頃の思い出の品を捨てられないのは、その思い出に浸りたいからである。
それは、悪いことだとは思わない。
でも、前の過去を見ている親と子供の間に軋轢が生じたときはどうだろうか?
通常の反抗期ぐらいなら良い。
学校に通えないとか、不良になったとか、家族関係が崩れていたときはどうだろうか?
そういう時に、人は、子供が赤ちゃんであったときに写真、ものに頼る。
そして、思い出に浸る。
現在のいざこざと過去の幻影の狭間で、上手く、現在の事態を収集できないでいることがある。
もちろん、それが、人間である。
私は、子供はいないが、記憶に残っているような生徒、一生懸命頑張っていた生徒の事を思い出すし、私が、家で考えておくと言って、写メを取ったノートの写真が出てくると懐かしく思う。
逆に、親のことで、両親ともに死んだ後、なかなか片付けるのが難しかった。
未亡人の人が、夫の遺品を毎日一つ、一つ捨て行ったと言うことを聞いたとき、「あ、そうか」と、私も、1日一つとは、言わないけど、このタンスのを捨てる。靴を捨てる。皿を捨てる。机を捨てる。
と私が、小さい頃からあったものまで捨てた。
そこには、過去の幻影があり、それを、取り去るのは、難しかったが、私が、最終的に決意したのは、「いま、私が、ここで死んだら、誰が、片付けるのか?」という、現実的な理由と、また、前に進もうとする時に、過去の幻影は消えつつあるのを無意識ながら感じた。
そして、私は、自分の仕事も寮でも、仕事したり、また、これから、自分でもやっていこうと前に進み出した。
親の残るものは、あと少し。最後に残るのは、多分、写真くらいだと思う。
写真も夫婦二人でとった写真もあるから、今度は、死んだ犬とか猫とかも入れて、自分で描けないからAIソフトにでも、合成して作ろうかな?とか、思っている。
思い出に浸る時間は徐々にへり、それは、家にある親のものと明らかに比例している。
どこか過去の幻影に浸りたいという思いは、美談であるように思うが、その一方で、自分自身を前に進ませないようにするブレーキであるもある。
前に進むようにアクセルを踏むか、ブレーキを踏むかは、自分が、選択することであるが、現在ごちゃごちゃしてしまっている事を解決したいのであれば、前に進むべきである。
過去の思いに浸ると言うのは、前に進むことを阻む行為である。
そして、そこに付け入るように、スピリチュアルが、入ってくる。
だから、人は、時に、スピリチュアルにはまり、共感する。
それは、別に悪いことではないが、問題は、それを、利用するものがいる。
悲しい現実。
「死んだ、親が、こう言っています」とか、全部嘘なのに、せっかく前に進み出そうとする人間を引きずり戻すのが、江原とかなんとかである。
かれは、表参道に4億円の家があるらしい。
全て、人が、前に進もうとするのを、引きずり下ろすことで、得た対価である。
かれは、よく、魂の話をする。
私が、一つ助言すれば、あなたの魂は、汚れすぎている。
そして、前も述べたが、やったことは必ず、帰ってきます。
嘘を並べて、テレビに出て、人より、人を見る力はあるのでしょう。
しかし、それは、才能ではなく、騙しに過ぎない。
破壊の時の術も知ることもない。
使われて、捨てられる。
限度も知らない。
この先の彼の行く末にご期待あれ。