近くに居る人ほど愛せない | やっぱり一人が好き

やっぱり一人が好き

 何年も日記のようなブログを書いていると、私の悩みは、一人でいるか、ワイワイするのかで揺れていると思う事がよく分かった。

 まさにその点が私の心のわだかまりであるし、辛いところである一方、生きている証拠でもあると思う。


 
 和歌山の桜浜。
 お母さんとそっくりである。
 双子の妹が桃浜で、似ているが、結浜とにているきがしてならない。

 来月中国に帰ることになる。

 アドベンチャーワールドの飼育員さんみたいに、優しく接してくれるのかな?とか、意見もある。中国は、不潔じゃないかなとか、政治が腐敗しているとか、よいイメージの無い中国、中国人に対する不安も重なってくるのだろう。

 でも、やっぱりパンダは中国のもの。

 四川省 陝西省に住むのが一番よい。

 だから、中国で立派な子孫を残してほしい。

 パンダや猫の動画をかなりみるが、いつも思うのだが、自分で世話をすると言う事になった場合、少し難しいと感じる。

 猫も保健所で殺されてしまうなら、一匹位、保護しようとかなんとか思うのだけど、もし、今のような家にいない時間が多かったりしたら、面倒みれない。

 この間も、身なりよい、多分、ホームレスのご婦人が自転車で、アルミ缶を集めていたが、「もしよければ、うちの部屋空いているから、来たらどうですか?」何て、心では思うけど、猫以上に実行できない。

 多くの人が、見て見ぬふりをしている。

 環境保護?そんな、ある一定の団体に紐付いたアジェンダでなく、自分の身の回りには、支え合う必要のある事が、山ほどある。

 それが分かっていても、何か、他人と言う感覚が、様々ところに、蓋をしてしまい、特に自分を犠牲にしてまで、何かの行動を起こすと言うことがないのが、ある意味普通なことかとしれない。

 逆に、もし、同じ屋根の下で生活している親子、寮の生徒なども含めて、密接になればなるほど、どうでも良くなるのはどうしてなんだろうか?

 親子は仲が、悪いのが普通。

 もちろんそうでない家もあるだろうが、全てを受け入れる事など、親子関係でも出来ない。

 近くに居すぎると、その「他人」の嫌なところが見えてしまうからであろう。

 自分にはマッチしないと言う価値観の相違もある。

 そのうち、会話もしなくなる。

 しても、話しも合わないし、合わせるつもりもさらさらない。

 孤独って、そう言うことだと思う。

 それで、自分が孤独になると、赤の他人が、寒い中、家もなく寝ている人も居ることが、気になり出したりする。

 ある程度、大人になると、価値観が合わないとこは分かっている前提で、合わせるような関係になる。

 他人の話しに相づちをうち、話しは何も聞いていない。

 だから、後で、相手も、前に話したことに私も興味があると思っていて、何ヵ月も経って、その話のアップグレード版の話が出ると、「それって何の話だっけ?」なんて、なって、「え、この間話したよね」と言われる。

 そして、こっちは、「あ、あ、あれね」と言っても、全く記憶に無いので、「いや、ごめん忘れちゃった、何だっけ?」なんて、意味の分からない返答をすることになる。

 そして、遡って話を再開され、更に、アップグレード版まで、話をされると、また、何も聞いていない状況になる。


 これは、私が被害者である場合もあるが、逆の場合もしかりである。

 なので、私は、相手が前言った話を覚えていない場合は、それ以上話しはしないことにしている。

 てなわけで、そう言った会話はものすごく、非建設的で、意味の無い時間なのであるが、人間関係なんか、そんなんで回っている気がする。

 ただ、このような状態は季節で言えば秋であり、冬の時代になると、会話すらなくなる。

 「今日は天気がいいね」と。


 私は、会話が得意な方でないから、別にそれで、いいと思うけど。

 
 要するに何がいいたいのかというと、会話をしたくないのである。