漢語の「沙門」から来た言葉だと聞いたが、サンスクリット語の音写「沙門」。
つまり、僧侶を意味し、托鉢僧の貧しくみすぼらしい姿からとも言われる。
金・金・金の世の中で、
現代の政治家や権力者からも感じるが、実に哀れで汚らしく、意地汚い。
私は、そんな「さもしさ」を感じる人は、その場で離れることにしている。
私は、托鉢僧の姿が、みすぼらしく哀れとは思っては居らず、
むしろ、托鉢僧のような姿になりたい人間なのである。
昨日、読んだニュースから。
80歳の父親が脳梗塞からせん妄状態となり、
背中の骨や内臓が見えるほどの重度の床ずれになり亡くなったという、
悲惨なニュースがあったが、息子の「ごめんね」の言葉に「頷き」亡くなられたという。
実に杜撰な医療関係者の対応だが、「さもしい人間が多過ぎる」と私には思える。
それ程の悲しみがあるだろうか。
その父親の気持ちを思うと、「あまりにさもしい人の世に」怒りで涙が出る。
後、10日もすれば旅立ちだが、「そんなさもしい人の世」に早く別れを告げたいのだ。