大学生の時の話をしようか。
高校の時にうつっぽくなり被害妄想を起こし毎日不眠で勉強しかしていなかったわたしは、大学生になったら友達をたくさん作ろうと思った。確かにちゃんと友達はたくさんできた。医学部にも歯学部にも別の専攻にもたくさんできた。
一年生の6月、介護していた母がいよいよあかんということになり、学校をさぼりくさって1週間24時間病院にて付き添い続けた。食事も全く取れなかった。食事を摂らず、風呂にも入らず過ごしていた。学校もあったしじゅうぶんな介護ができていたとはいえなかったから、全てを犠牲にして付き添うことが最期の使命だと勝手に思っていた。父はわたしとどう接していいかわからないようで少し遠くから見ていて、時々チョコレートを差し入れしてくれた。
難病というのはもう治しようがないので、呼吸や身体の痛みなど苦しみを取り除くケアをとりあえずしながら、ただ死を待つしかなかった。母は時々目を覚ましては、どこかが痛いけどどこが痛いのかよくわからない、と言った。
ある日、「あ、わかったー! ちょっとさわってみて、この背中のところ、そう、そこが痛かったんだ、やっとわかった」と言った。わたしはさわりながら、下手くそな体位変換でマッサージを続けた。腕がものすごくだるくなったけど、「学問にかまけて母を見捨てた罪の償いだ」と、だるい腕を必死に動かした。
やっと痛いとこがわかったその日、母は死んだ。
母を亡くしてしまったわたしは、とりあえず自暴自棄になった。介護のため止められていた部活をやり、朝早くから遅くまでバイトし、電気あんかのコードで首を吊り、死ねないと泣き、母のギター(絶対触るなと言われていた)が触るなと話しかけてくるような気がして恐れ慄きつつ憧れに負けて少しだけ触ったり、ひとりで夜中じゅう歩き、ふらりと鈍行で長崎や北海道に行き、飲み会し、頻回にオールし、学校に泊まり込み、友人宅を泊り歩いた。
真面目な子が多い大学だった。みんな優しいし面白いけど、やるときはやる、ものすごいギャルとかものすごいおとなしい人とかはいなかった。そんな中で、自分は一人だけ、なんかおかしいやつだった。大体の授業はさぼっていた。カバンを持って、「トイレ行ってきます」と言って帰ってこないこともあった。教室の席にいても、自分の思いを分厚い日記ノートに何冊も何冊も書くので必死だった。興味のある授業だけは、先生の講義に注釈を入れたいところをこっそり自分のレジュメに書きまくり、准教授に声をかけられて大学院の授業に潜入して意見交換したりするのに、それ以外の授業の時はほぼいないか聞いていないかだった。
そんな浮きまくったやつなのに学生時代の友人たちはよくみんなわたしを受け入れてくれたなと思う。違和感はあった。わたしは他の人とどうも違うようだ、生育歴や経験をとってもまあ違うし、できはよくないし、家族はいないし。だからキラキラした清潔な大学生を見ると、その子の背景もろくに顧みずに、なんかむかつくな、何も知らんくせにやな、とか思ったこともあった。
きょう最寄の駅に着いた時、つるんでいたわけじゃなかったが仲良かった同級生と似ている女の子をみつけた。顔つきは似てるのに、表情はだいぶ違ったので、別人だとすぐにわかった。わたしの同級生はいつもニコニコしていたので、頰にちらばるたくさんのニキビ跡も全然気になりはしなかった。きょうみかけた女の子は、めちゃくちゃ不機嫌なようすで周囲を睨め付けていたのだ。不機嫌な顔をしたその子にはあまり魅力を感じなかった。ほんのそれだけのことで、いややっぱ顔の美醜が云々よりも笑顔が大事だよねとオチをつけたかったわけでもなく、ただ、同級生の女の子の笑顔を思い出したら、懺悔したいような気持ちにかられたのだ。たくさんのひとのあの笑顔に甘えて、わたしは4年間苦しみを苦しみ抜くことしかできなかった。癒される必要性を撒き散らし、周りの人がどれだけ片付けてくれても散らかし続けることしかできなかった。そういうことがわかるようになったのも、それからだいぶ後のことなのだ。今は誰かが散らかした涙とか苦しみを、笑顔で片付ける仕事をしている。している…うーん…できているとよいのだが。