ナチスの本読みながら、戦場のピアニストのことなど考えている。
音を奏でるひとー聴くひと の関係や、愛し合うひとの関係には国境とか敵味方とかそういったものはないはずだから、ひとをふたつの組に分けて片方を弾圧させたとき、悲しみが起こる。
もともと人間同士が対立し合うことは無意味なのに
ドイツには、健常者と障害者というふたつの組に分けて、障害者のほうをガス室に送り込んだという歴史がある。
たぶん探してみれば他の国にだってあるのだろう。
障害者の安楽死計画を進めた医師は、世界大戦後経済的に困窮した世の中で、障害者と比べてサポートが行き届いていないために早死にする健常者たちの権利を救うために、治る見込みのない障害者や痴呆(今で言う統合失調症と認知症を含む)のひとを安楽死させることを提唱した。
しかし実際に安楽死計画が進められると、その医師の親戚が安楽死要因に含まれていたことがわかり、医師は遺灰を手に涙する。
お荷物と名付け、安楽死させようと思った時点での医師にとっての障害者は、『他人』だったのだろうなと思う。
生活保護受給者はみんな死ねばいいと言っている後輩がいたが、自分の税金がかれらの贅沢に使われているととらえているからそう思うのであって、自分や自分の大切な人が働けなくなったりして生活保護が必要になったらということを考えていないのだろう。
自分や自分の大切な人がそうなったらどう思うの?と問いかけると、自分が働けなくなったら死にますとか言ったり、大切な人は捨てますと言ったりしているが。いざ必要となればたぶん、国からいやというほど搾り取ることがかれならできるだろうな、と思うと鼻から笑いが漏れた。
くるしむひとたち、をどこか遠くのひとたちだと思ってるうちは、くるしむひとたちを枠に当てはめて傷つけることは止まないのだろう