しもて側の人々のその後 | ぴいなつの頭ん中

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殻付き。そにっくなーすが言葉を地獄にかけてやる

こんなのを、見たことあるだろうか。

時々、鳥の羽の塊か、干してた布団の羽か、ふわふわの毛玉みたいな白いやつが空中を舞っているの。

わたしはそれを、重力による桎梏を受けないシュルレアリストの魂として、ブルトンと呼んでいる。

学校に行きたくないとき、人に理解されない怖いものに触れたとき、耐えられない侮辱を受けたとき、なんかさみしいとき、突然にそれは現れて、何をするでもなくふわふわと漂っている。

ブルトンについては誰にも言わないと、小4の9月にひとりで決めた。だけど、ブルトンについての思い出があまりにもきらきらしているので、口からよだれみたいにこぼしてしまった。

好きになった女の子に、本の形をしたお手紙にのせて、ブルトンについて打ち明けてしまったのだ。

その子は甘い叫び声をあげて、大喜びした。私はそれで嬉しかった。何年かブルトンが顔を出してくれないのを、さみしく思っていた気持ちがあったから、そのぶんよけいにこぼれてしまった。

そんなふうに、ブルトンについてこぼしてからも、ブルトンは現れずに2年くらいが経った。私はひどいうつを乗り越えて、新しい職場で教育係を任されていた。苦しくもあったし低気圧はずっと苦手で、何度か倒れたりもしたけど、なんとか、なんとかやっていったのだった。

ある日、新人の、ひよこみたいな男の子をきつく叱ってしまった。彼を心配してのことだった。けれど、ふだん怒りを深くに封じ込めていたので、叱った瞬間、コーヒーを飲み過ぎた時みたいに心臓がばくばくした。出しすぎてはいけない、ちょうどいい頃合いで頭のマグマをちょろちょろ流す。それはとてもたくさんの集中力と血流がいる事だった。感情的にはならなかったけど、こわくなるのはこわいことだ。

考え事をしていたら、電車を乗り過ごした。反対側のホームにまわる。もう何回も乗り過ごしたから慣れてるけど、疲れた体に階段がきつい。

反対側のホームについて、駅員さんの背中を見ていたら、ふと、見覚えのあるふわふわが目の前をよぎった。

ブルトンだった。

やっぱり何をするでもなく、ケサランパサランよろしく願いを叶えるでもなく、ただただ漂っている。

久しぶりにブルトンを見かけてなぜか涙が止まらなくなった。
どうしてる?
私は元気だよ。
ちゃんとやってるよ。と心の中で話しかける。自分がかわいそうだと思う涙と、たぶん同じところから出ていた。

懐かしさはなんでこんなにいっきに涙を誘ったのだろう?

そういえば今日は、私が就職の時にお世話になった支援サイトの担当者と久しぶりに再会したのだった。「あのときと顔つきが全然違うね」と言われたのだった。転職する頃の私はひどいうつだったから、プレコックス感が全身に漂った怯えた顔をしていたのだろう。今は責任がここちよいと思えるほどに、自分を自分でたてなおしている。私は嬉しかった。顔つきが違うと言われたこと、久しぶりにあった人が私を覚えてくれていたこと、自分がちゃんとした人になったこと。

ちゃんとした姿を、ブルトンに見せることができたこと。

つらいことがまとまって降りかかるように、懐かしいひとやものもまた、まとまって降りかかるなあと思った。


お気に入りのカフェに行くのに遠回りした。ふたつの虹がかかっていた。