お習字 | ぴいなつの頭ん中

ぴいなつの頭ん中

殻付き。そにっくなーすが言葉を地獄にかけてやる

ちいさいころ、暇がなくて金ばかりある母親のすすめにより、たくさんの習い事をさせられていた。

水泳、算盤、ピアノ、習字、体操、などなど。
学童クラブのやんちゃな雰囲気などはきらいな母親であったため、誰もいない放課後から夕食までの時間は、習い事によって埋められて過ごした。
近所のともだちがあそべる?って誘ってくれる時も、ごめん、今日習い事あるんだ、って断ったが、いつもいつも、習い事なんか知らんぷりしてさぼって遊んでしまいたいと思っていた。

それでも、時間が来てお教室に到着すれば、周りの雰囲気にながされて自分の気分も乗ってきて、一生懸命やって帰ってくる。どの習い事もわりと真面目にうちこんでいた。ただしどうしても受け付けないものもあった。いちばん嫌いだったのが習字だ。墨の匂いは嫌いだったし、こぼしたり飛んだりするとなかなか落ちない墨は、おさない私には扱いづらかった。書き間違えたらとりかえしがつかないのもなんだか重たくてつらかった。何枚もの半紙をむだにしたし、慎重にやっても、時間の終わる頃には指やら爪の間にびっしりと墨がしみこんでいて、私はずいぶん時間をかけて手を洗わなくてはならなかった。爪の両側に詰まった汚れは洗ってもなかなかとれずに、夕食どきなど、母親に、なんでそんなにきたないの、と怒られたことも何度もある。

習字の時間は、月曜日の16時から。近所だったから自転車で行くのはわけなかった。ただ習字があまりにも嫌いすぎて、いつも静かに気取ってる先生のこともなんか気に食わなくて、せめてもの反骨心で、筆をまったく洗わずに一週間放置したまま持ってきた。洗わない筆は墨でがっちり固まって、使い物にならない。これをそのまま新しい墨汁でとかそうとしても、筆の先は変な形に割れて良い字は書けないだろう。私と同じ時間にくる生徒さんはみんな真面目だったので、筆を洗わずに来たなんて子は私が通い始めて以来ひとりもみたことなかった。

反骨心が自分の気持ちをちょっとは晴らすかと思いきや、怒られるのではないか、失望されるのではないかと思うと途端に悲しくなってきていつもの倍くらい重苦しく教室の呼び鈴をならした。こんにちは、と元気良い声をむりやりだして入って行く。みんなはいつも通り準備をしている。みんなの動作の滞りなさが、私の反骨心をぐちゃぐちゃに潰して溶かした。私は泣きそうになりながら先生の机に行った。

あの、筆を洗ってくるの忘れました。

先生はちょっと私の顔を見て、あ、そう。と言った。怒りもせず、落ち着いているが、逆に何を考えてるか分からないぴくりとも変わらない表情がこわくなった。

筆、出して。

先生は冷静のまま言った。私は言われるままに無言でかちかちのきたない筆を出した。先生は筆を受け取り言った。

お教室が終わったら毎回、お家できちんと洗わなくては筆が可哀想だよ。

ごめんなさい。

ちいさくなって私は返事した。

先生は何も言わず眼鏡をとった。筆の先を目の近くまで持って行くと、長くて細い舌で筆を丁寧に舐めはじめた。私はびっくりして、ただあほみたいにそこに立って筆をなでる舌の動きを見ていた。先生は猫が腕を洗う時みたいに、やさしく丁寧に、いつくしむように筆を舐めた。先生の伏したまぶたは皮膚がうすくて、ふたえの線の跡がいく筋も走っていた。まつげは意外と長くて、青白くて肉のないかたそうなほっぺに長い影を落としていた。ちょっと下を向いてるから顎がより一層細く見えて、舌だけが素早い動きをして筆を舐めていた。ピンクだった舌がだんだん真っ黒に染まって行く。墨なんて舐めておいしいものじゃない。だけど、気持ち悪いとか、ごめんなさいなんて気持ちは起こらなかった。筆を舐めているときの先生がとてもうつくしいということに気づき、それは私だけが知っている、ってことがなんだか恥ずかしかった。先生との、ふたりのひみつを持ってしまったような気がしていた。

やさしく舐められた私の筆は、あっという間になめらかにやわらかくなっていた。もとの、水洗いして持ってきたときよりもふんわりしてみえた。

はい、今日はこれで使いなさい。帰ったら自分でちゃんと洗うんだよ。

もとの冷静のまま、筆を私に手渡した。柄のほうを私がちゃんと持てるように渡してくれた。先生の手は指が細くて、ちょっと骨張ってて綺麗だった。ぼうっとしながら私はそれを受け取った。自分の席に向かって、いつもと同じ距離で先生をみると、先生はいつもどおり眼鏡をきちんとかけ、気取った様子でみんなをさらっと見ていた。
先生と目があった。先生は何事もなかったかのようにちょっと首をかしげた。私は自分の顔が熱くなるのを感じた。

教室が終わって家に着くなり、まっすぐに洗面所へ行った。先生が舐めてきれいにしてくれた筆を出す。
先生の真似をして、背筋をぴんと張った。自分でできる最大限の上品な手つきで筆を持つ。それだけで、今日の先生のことを思い出してどきどきした。今までだったら墨なんか口にしようとも思わなかったけれど、先生のうつくしい舌を思い出すといてもたってもいられず、先生が舐めた筆の先に、そっと舌をつけてみた。
墨はやっぱり苦かった。

先生の舐めた筆を自分も舐めた。

それは、筆を洗わないで教室へ行くこと以上に、いけないことのような気がした。筆を舐める先生のうつくしさは、その後何十年経っても、忘れられない。