家畜人 | ぴいなつの頭ん中

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殻付き。そにっくなーすが言葉を地獄にかけてやる

心を家畜みたいに飼いならしたい。自分の心さえままならない。なやんでなやんで、しかたないから羊を飼って、この羊をわたしの心だと思うことにした。


羊はいいこだった。かわいい形をしていた。

なでてやるとふんわりとして、毛の中に指をつっこむとどこまでもとどきそうなほど深かった。尾切りしないままのしっぽはとろんとしていて、ちがういきものがおしりから垂れているみたいだった。

羊がその三日月を横にしたような奇妙な眼で、にんやりとわらうときは、わたしの心は幸せなのだと思った。逆に、わたしに直接幸せなことがあったときも、羊は笑っていた。自分のこころが言うことをきかないとき、羊に厳しくしつけをした。羊が言うことをきかないなんてことは、全くなかった。羊をうまくコントロールできていることで、わたしは自分の心をコントロールできている気持ちになれて、安心することができた。

でも羊は逃げた。
二ヶ月くらいで逃げた。
厳しくしすぎたのかな。
わたしの一ヶ月の半分以上くらいは、
精神の不安定でなりたっている。
いや、成り立っていない、崩れている。崩れた山の上で寝そべってなんとか生きている。
それだけ、羊に厳しくしつけをした日が、八つ当たりをした日が、意味もなく怒鳴ったりした日が、一緒にいた日々の半分以上だったってことだ。

羊は逃げた。

可愛くて言うことをきちんときくうえに文句を言わない羊は、いつのまにかわたしの依存しどころになっていたようで、
そもそも羊はわたしの心だったのだから、
わたしは心を失って呆然とした。

羊をつかってうまくコントロールしていたわたしの心は、からだをおいて逃げてしまって行くようだった。

羊のように。

心が残したやわらかな残骸、
たべのこしやふわふわの深い毛、
すきだったおもちゃ、


羊をさがすことはできなかった。
羊をさがすことを、わたしの心が、
避けた。

わたしの心が羊なら、
わたしの心はいつでもほんわりした温度をもっていて、
さわると生きている感じがした。

羊の心はわたしがもっていると思っていたのに、羊はときにわたしの思わないことを思い、知らない景色を思い、知らない言葉で話しかけた。

結局、心は羊で、羊は心だった。
羊に限らず、わたしの心はわたしの思うところ、思わないところ、どこにでもあったし、どこでもはっきりしていなかった。
わたしという心はそのへんにたくさん散らばっていた。
わたしとは関係のない顔をして。


だから、逃げた羊は、逃げたからって、わたしの心じゃなくなったわけではないし、わたしの心はどこかに逃げてしまったわけではない。


いつか羊に会えると良い。
きっと羊もわたしを思っている。