この建物には、東京タワーが見えるほうの窓と、スカイツリーが見えるほうの窓がある。東京タワーのほうの窓からは、カンファレンスの時間をすぎるころに、西日が痛いほどさしてくる。
その時間を狙って、わたしはいつもその部屋へゆく。開放された、みんなと同じピンク色の扉をぬけて、曖昧な色のカーテンをこえて。
それは明らかに個人の部屋でありプライベートの空間であるにもかかわらず、職権を乱用し、みんなと同じ白い服を着たものたちが出這入りをしていた。白い服のものたちは部屋を縦横無尽に横切り入りこみ踏み荒らし花を活けた。ただし生花は禁止されていた。腐るしかびるし、ここの住人たちは毎日水を替えるかというとそんな保証はなかったからだ。かわりに、やすらぎを1リットルくらいのびんいっぱいに詰め込んで活けた。やすらぎは違う国のことばでケアといって、特殊な免状をもった人間がそれをなりわいとし、まったくの他人に対しそれを活けておかねをもらうことが許されていた。
ほんとだったらやすらぎを活けるのがいちばんうまいのは、その部屋にいる個人とともに長い間かけて花瓶をいっしょに作ってきた、家族や友や恋人だ。だけれど特別に、白い服のものたちは、愛情ややすらぎという形にならないものを形にしようと努めることを、並々ならぬ学習と研究の成果により許されていた。
さらにほんとうをいうと、わたしもその白い服を着ていた。おんなじ服をきたものたちからは見えていなかったけれど、わたしも免状を持っていたし、人の心に入り込んで花を活けていくことを許された立場であった。
今回は別に花を活けるためにその部屋に入ったわけではない。ただ、わたしが彼の目にちゃんと映っているか、知りたかっただけだった。あまり他人には見えないわたしだから、いつもいつも損ばかりしていた。白い服のものたちは、わたしのことが見えないから、わたしが活けた花をすべて自分の手柄だと主張するのだ。わたしがどんな思いで、自分の睫毛を一本ずつ抜いて束ねるように花を活けてきたか。その苦しみを知ってるからこそ、楽してその甘い蜜を得ようとするのだろう。白い服のものたちの間では、わたしの活けたものはすべて、ほかの白い誰かの手柄になっていた。
ただわたしは信じたかったのである。あの部屋に棲むかれは、わたしの手がわかるに違いないと。
西日に紛れて入りこむ、ドアを叩いて返事も待たず入りこむ。
かれはこちらを向いて、病んだ目でわたしを見ようと一生懸命焦点を合わせた。その表情は、初めてさわる何かに出会った時の興味深げな、不思議そうな顔つきに似ていた。かれは表情筋で感情をあらわすのがとてもへただった。
西日は冬の冷たい空気に似合わず、細くスライスされた夏のようにかれの目を灼き、部屋の温度をあげていた。動くことのできないかれは、ブラインドをおろしてくれ、とても眩しいんだ、とちいさな声で言った。
わたしはちいさく頷いて、ブラインドをしずかにおろしていった。もう誰にも見えやしない。わたしだけではなくかれだって。萎えた目はやすらぎにしか癒せない。
わたしがわかりますか。わたし、あの人たちには見えないらしいんです。あの人たちのほうが、より遠くも近くも、はっきり見える健康な目を持ってるのにね。
そう言ってみるとかれはこたえた。
わかるよ。あたしにゃしっかりみえる。あんたのまるくてちいさな手が、やすらぎをいっぱい活けてくれた。見逃さなかったよ、一瞬たりとも。見逃しちゃいけないと思ってたんだ。あんただけなんだよ、ドアを開ける時にノックしてくれたのは。
その言葉で、今までのいろんなことが報われたような気がして、泣きそうなほど幸せだった。しかし、免状もらって仕事をしていて、おかねはたっぷり貰っているのに、こうやってでもしないと報われたような気持ちになれないわたし自身がとても気持ち悪かった。
元気になったら、わたしのことなんか忘れてしまいますね。と、わたしはちょっと大きな声で言った。
そうだね、いつしか忘れてしまうかもしれないね。
でも、この体がほんとうにすべてだめになって、魂以外の全てが死んだ時、たぶんあたしはあんたをはっきり思い出すと思う。
かれは珍しく確信をもった声で言い放った。
わたしは涙でかれのシーツをどろどろに濡らしていた。かれがはじめて目をあわせてくれた日や、活けた花をみて笑った姿が西日に反射して、映写機みたいに白い壁を染めて行く。
うれしい、ありがとうという言葉は間に合わなかった。わたしとかれは、その直後に引き離されたのだった。わたしは離れ離れの部屋で、自分が出せる一番高い声で叫んだ。わたしの胸元にふわりと手のような感覚がふれ、毛だらけのようすから彼のものだとわかった。