海外で子育てをして、やむを得ない事情で日本に帰国せざるを得なくなった訳だが、よく言われることがある。

 

「子供は親の勝手の犠牲者、親の都合に付き合わされてかわいそう」

 

これがオーストラリアだったら、「こんな素晴らしい経験ができて、あなたの子供たちはラッキーね!」でしょう。

 

実際、当の本人たちが気にしてないというか、英語をマスターさせてくれて本当によかった、これでいつでも世界中に出ていけるって喜んでるのに、、

 

基本的に日本って、本人たちの意志よりも多数派のジャッジメントが正であり、「ふつうは」とか「常識的に考えて」という枠から外れてしまった人間は、単に「間違ってる」としか認識されないのかもしれない。

 

それは教育システムにもさりげなく組み込まれ、知らず知らずのうちに大多数の日本人のアイデンティティを形成していく。

 

「常識的に考えて」「ふつうは」

 

昔からこの言葉を言われると、反射的に反発してしまうのはなぜだろう。

 

常識とかふつうっていうのは、非常に曖昧な日本独特の基準であって、おそらくみんなコレが世界の常識ではないことぐらいわかってるはずである。

 

国全体がグローバル化を推進しているにもかかわらず、未だに日本の常識にこだわり続けて変えようとしないのは矛盾以外の何物でもない。

 

それなのに日本ではグローバルという言葉が溢れ、現に小学校から英語が導入され、グローバルコースなるものが全国で新たに作られ続けている。

 

ブランド志向が根強い日本人にとって、グローバルとは単にブランドのようなものに過ぎないのかもしれない。

 

うちの子は海外には行かせたくないけど、英語くらい話せた方がいいという程度なのであろう。

 

いまだに偏差値の高い大学を目標にして受験のための勉強を子供達に強要してるのは日本と韓国くらいなものである。

 

そんなブランド志向の結果得た学歴のほとんどは、日本の中では通用するかもしれないが世界では通用しない。

 

実際、自分も受験のための英語しか勉強してこなかったため、30歳を過ぎてオーストラリアで仕事をしたいと思い、大学大学院まで卒業したけれど、結局英語力の不足によりビザが取れず帰国せざるを得なかった。

 

そんな日本を尻目に、中国をはじめ、アジアの中で今まで発展途上国といわれていた国々の裕福層の子供達は、いわゆる受験のための英語ではなく、本物の言語力とグローバルな考え方を身につけてどんどん世界に飛び出して活躍している。

 

海外に住んでみると日本という国は日本が思っているほど世界から相手にされていないことを肌で感じる。経済支援、文化交流、交換留学生などで表面的には日本は素晴らしと賞賛されるが、家電量販店などにいくと、輸入品のほとんどは中国製か韓国製で埋め尽くされている。

 

日本も、これじゃいかんと、本当に世界に対応できる人材を育成しなければという危機感はあるにはある。

 

ゆとり教育で表面的にだけ海外を真似て大失敗した経験からか、本気でグローバル教育、バイリンガル育成に取り組もうとはしている。

 

が、しかし、さっき言ったように、日本での英語の位置付けはあくまでブランド志向の延長線上にある英語であり、本気で世界に打って出て行くための武器としてではない。

 

親や先生の意識がこの程度なのに、子供だけが世界に通用できるようになれというのは無理がある。

 

日本という社会はすぐには変わらないにしても、本気で日本が将来を見越してグローバル化を望むなら、最低でも親と先生、そして教育システムそのものがグローバルな思考でなければならない。

 

実際、自分自身も日本の常識的な考えで物事を決めつけてると思った出来事がある。

 

我々家族のようにジプシーのごとく点々と生活をしていると、「いつまでもそんなことやってると、子供が故郷がどこかわからなくなる。いい加減子供のことを考えて落ち着きなさい」というアドバイスをもらうことがある。

 

確かにそう言われると親として返す言葉がない。

 

しかし、子供達に言わせるとこうである。

 

I don’t care wherever I live. I just belong to the earth.

 

この子達はすでに頭の中はグローバルなのである。正直この言葉をサラッと言われた時あっけにとられた。こいつらはすでに我々の狭い常識の外を行ってるんだなぁっと感じた。

 

 

日本の常識という限られた世界の教育ではなく、地球という単位で活躍できる本物のグローバル教育は日本にないものか?

 

、、あるかもしれない、、沖縄に。

 

さっそく那覇へと飛んだ。

 

つづく。