死生観に関する随想その77(小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』から) | 飢餓祭のブログ

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 小林は書いている。

「なぜ、ヒトは桜に惹かれ、それを好み、美しいと感じるのでしょうか?生物学的には、次のような説明が可能かもしれません。

 それは『変化』です。ぱっと咲いてすぐに散る。満開の桜の花は『新鮮』の極みであり、生命の力強さに溢れています。桜以外でも同じことが言えると思いますが、ヒトは本能的に新しく生まれたものや変化にまず惹かれるのです。

 地球はまさにこの新鮮さに満ちています。全てが常に生まれ変わり、入れ替わっています。先ほど挙げた『作っては分解して作り変えるリサイクル』というお話を思い出してください。このことを『ターンオーバー(turn over)/生まれ変わり』と言うことにしましょう。これが、本書の重要なポイントの1つ目となります。ターンオーバーこそが奇跡の星地球の最大の魅力です。

 そしてその生まれ変わりを支えているのは、新しく生まれることとともに、奇麗に散ることです。この『散る=死ぬ』ということが、新しい生命を育み地球の美しさを支えているのです。」(小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』講談社 2021年4月20日 p48)

 新しい生命を生むためには、古い生命は死ななければならない。小林は、この本の第1章において書いている。

「〈そもそも生物はなぜ誕生したのか?〉という問いに対して、度重なる偶然(ミラクル)が起こり、より効率的に増えるものが生き残り、死んだものが材料を供給する『正のスパイラル』によって生命が誕生したということをお話ししました。そして現在の地球の美しさを支えるものはミラクルが重なることで生まれた多様な生き物が存在し、それらが常に新しいものと入れ替わる『ターンオーバー』でした。」多様な生き物が出現し、それらが常に入れ替わる(生まれ変わる)こと、「ターンオーバー」していくことが進化であると小林はいう。(小林同書p50)進化とはターンオーバーすることであり、ターンオーバーこそ進化を進めるという。

 そして、小林は重要なポイントの2つ目として「進化が生き物を作った」という。この言葉を小林が意図するように解釈すれば、進化によって多様な生き物が生まれ、その生き物の中から過酷な自然に適合的な生き物が生き残ったということかもしれない。語のそのままの意味の進化という言葉は、自然選択によって生き残り、より適合的な形質を獲得したという結果を指す言葉であって、進化という現象が生き物を作ったわけではないのではないか。進化が生き物を作ったという言うよりも、自然選択(自然淘汰)が起きて多様な生き物が淘汰(篩にかけられること)されていった、淘汰に耐えた生き物が残り、淘汰に耐えられずに篩から転がり落ちた生物が絶滅していったと言うほうが正確だろう。進化が生き物を作ったという言い方は正確ではない。進化した生き物となったこと、すなわち、進化を作り出したのは生き物のほうではないだろうか。

 高木由臣はこの現象を別の側面からこのように書いている。

「生存・排除の結果を導く主体は、自然『環境』だけではなく、現実には自然の一部である『生物』も含まれる。例えば、ある物理的自然環境に適応できなかった生物は、不適者としてその場所から放逐されるかもしれないが、追い出されて敗者に見えた生物が、その生物にとっての適応的環境を『選ぶ』ことができれば、適者になる。砂漠に棲む生物や暗闇の洞窟に棲む生物は、そこを『選ぶ』ことによって生き残った成功者と言える。『自然選択』という訳語が『自然環境が、適応した生物を選ぶ』ことだけでなく、『自然の一部としての生物が、適応できる環境を選ぶ』ことも表現しうる」。(高木由臣『生老死の進化』京都大学学術出版会 2018年11月10日 p293)自然選択(自然淘汰)という現象は自然環境が生物を選び、生物が自然環境を選ぶという相互的過程でもあると高木は言っているわけだ。生物は適応的に自然を選ぶだけでなく、生物自身を自分で変えることもできる。

 進化生物学者のアンドレアス・ワグナーは生物がなぜ進化したのかという観点から次のように書いている。

「(遺伝子(gen)という言葉をつくった)ウィルヘルム・ルドヴィヒ・ヨハンセン(デンマークの遺伝学者)は、現代生物学にとってさらに重要な二つの言葉(をつくること)についても貢献した。彼は遺伝子型(genotype) という言葉を造語し、表現型(phenotype)と区別した。現代の用語でいえば、遺伝子型は一個体のすべての遺伝子、すべてのDNAを含むのに対して、表現型は、その個体について観察できるその他のすべてのこと、大きさ、体色、尾・羽根・あるいは甲羅をもつかどうかといったことを含む。この区別の理解は決定的に重要だ。なぜなら、それは生物が変化するときに結果から原因を言い当てることを可能にするからである。

 mutation(突然変異)という言葉を取り上げてみると、この言葉は、二〇〇年以上も前からすでに、生物の外見に現れたあらゆる劇的な変化に対して用いられてきた。だが二〇世紀の初めに、突然変異という用語が、ある時にはメンデル流の遺伝子単位に、ある時には生物体(表現型)に用いられていたために、変化の因果関係についての果てしない混乱をもたらすことになった。一〇〇年後の私たちは、突然変異が遺伝子型を変化させることを知っている。たとえば、私たちの遠い祖先動物の一部に、オプシンという光感受性タンパク質の青写真を変化させた突然変異のように、こうした遺伝子型の変化を引き起こすことができ、変化した表現型の一部が、私たちが世界を(オプシンというタンパク質のおかげで三つ色の識別が可能となり)色付きでみることができるようなイノベーション――新奇で有用な形質――となるのである。

 ひとたび遺伝子型と表現型を区別してしまえば、いかにして突然変異は表現型の変異を引き起こし、新機軸(イノベーション)を生じるのか?という、生命のイノベーション能の理解にとって決定的な問いを発することができる。それは、ダーウィンが没した時点で未解決のまま残された謎だった。

 新機軸はどこからやってくるのか?(自然)淘汰が必要とする新しい変異はどこからやってくるのか?とりわけ、ある個体を改善し、少しでも長く生きながらえさせ、異性により魅力的に見せ、あるいはより多くの赤ん坊をもたせるのに役立つような変異はどこからやってくるのか?この問いに空疎な決まり文句で答えることはできる。新しい変異は偶然によってランダムに生じるのだと。この決まり文句は現在でも用いられるが、ダーウィンはすでにその文句をよく心得ていた。同時にそれが何も意味しないことも知っていた。『種の起源』の変異の法則の章は次のように始まっている。

 『これまでときどき私は、変異が(中略)偶然によって生じるものであるかのごとく語ってきた。もちろんこれはまったく不正確な表現なのだが、個別の変異が生じる原因について私たちがまったく何も知らないということを率直に認めるうえでは役に立つ。』

 これは小さな問題ではない。なぜなら、自然淘汰は創造的な力ではないからである。それは新機軸を産みだすのではなく、すでにあるものを選別するだけだ。ダーウィンは自然淘汰が新機軸をひろめることができるのに気づいたが、そもそもそうして新機軸がどこからやってくるのかは知らなかった。」(アンドレアス・ワグナー『進化の謎を数学で解く』文藝春秋 2015年3月30日 p23-p24)

 ワグナーがダーウィンの言葉を引用して上記のように言及していることを援用すると、小林が「度重なる偶然(ミラクル)が起こり、より効率的に増えるものが生き残り、死んだものが材料を供給する『正のスパイラル』によって生命が誕生した」と書いているのはワグナーが言うように「空疎な決まり文句」で答えていると言うことができる。小林は実は何も語っていないと同じなのである。「生物が直面するなんらかの特別な課題に対する適応的な解決策」がいかなる事情で生じたのかということを「度重なる偶然(ミラクル)が起こり」とごまかしているように思われる。「その大小にかかわりなく、一つ一つの新機軸はすべて、生命が出現して以降のどこかの時点で、適切な変異が出現したがゆえに存在する。淘汰はこうした変異のすべてをつくりだしたのではなかった――できなかった。ダーウィンから数十年後に、ユーゴー・ド・フリースはもっとも適切な言葉でそのことを表現した。『自然淘汰は最適者の生存を説明できるかもしれないが、最適者の到来を説明することはできない』。そして、その到来を説明するものがわからないのであれば、生命多様性の起源そのものを理解できないのである。

 生物は新機軸(イノベーション)を生みだすことができる。イノベーション能をもっているのだ。それだけでなく、生物は忠実な遺伝を維持しつづけながら、新機軸を生みだすことができる。古いものを維持しながら新しいものを探求することができるのだ、生物は進歩的であるとと同時に保守的でもありうる。そして二〇世紀の前半を通じて、生物学者たちはそれがどうして可能なのか、皆目見当がつかなかった。やがて見るように、彼らがそれを知ることができなかったのは仕方がないことだった。生物学の実験技術やコンピューターを使った手法が、この問いに取り組むことができるだけ強力なものになるためには、発見のもう一世紀が必要だったのだ。」(ワグナー前掲書p24-p26)

「自然淘汰は創造的な力ではない」し、「新機軸を産みだす」のではなく「すでにあるものを選別する」という役割を実行しているだけにすぎない。新機軸を産みだす生物が有する「イノベーション能」とは何なのかが問われなければならない。それはどこにどのように存在していたのだろうか。

「あらゆる新機軸(イノベーション)の源泉として、ダーウィンの時代以来ずっと念仏のように繰り返されてきたランダムな変化をもちだすのは、人類が魚の体内に起源したというアナクシマンドロスの主張と同じほどにしか役に立たない。それはいわば別の名を与えることで、無知に目をつむるようなものである。だからといって、突然変異が重要でないとか自然淘汰が絶対的に必須なものではないとかいう意味ではない。ただ、呆然とするほどの確率の低さを考えると、自然淘汰だけでは不十分なのだ。私たちは、新機軸を加速するような原理を必要としているのだ。」ワグナー同書p48)

 それはどのような原理と考えられるのだろうか。ワグナーは書いている。イノベーションを可能にするための必要十分条件を音楽の交響楽の主題に譬えるならば、「生命の新機軸の交響楽は三つの主要な主題をもっている.......第一に、生物の構成要素をつくる反応や、最初の自己複製因子をつくる反応のような、化学反応の新しい組み合わせをつくる。第二に、他の分子の反応を助けることができるような分子を必要とする。第三に、複雑な生物をうまく協調させる鍵となる新しい『調節』(中略)をつくりだす(という三つの主題である)。

 これら三つの主題は、生物がますます複雑になり、イノベーション能が増大するにつれて、生命界においてますます大きな音を響かせるようになっていった。原始的な代謝は、化学反応が組み合わせられ、組み換えられ、考えられるかぎりのあらゆる生息環境に生物がひろがっていけるようにする巨大なネットワークへと成長していった。精緻になっていくタンパク質分子は単純な無機性触媒を脇に押しやり、光を感知するオプシンや装甲のもととなるケラチンのように多様な新機軸を生じさせてきた。そして調節は、一見なんでもない過程に見えるが、それ自体で、新機軸の生産工場となり、手脚、心臓、脳をもつ多細胞生物を産みだすことになった。

 生命の起源(が実現し、生命が誕生して)から今日まで、新機軸(イノベーション)が代謝、タンパク質、調節を変容させてきた。そしてこの三者は非常に異なっているように見えるかもしれないが、その新機軸を生む能力の背後には、奇妙だが強力なある種の自己組織化の力が控えているのである。」(ワグナー同書p91-p92)代謝 - Wikipedia

 現代の進化生物学では、生物は遺伝子プール を持っているという考え方がある。ワグナーはそれを遺伝子の万有図書館と名づけたが、それは比喩であって、ワグナーは「遺伝子型ネットワーク」のことをそう呼んだ。その図書館には、ある物質を代謝して取り込む代謝の図書館、タンパク質の膨大な組み合わせの図書館、遺伝子回路を調節する図書館などがあり、環境に適合的な身体を作るためのイノベーションは、ここから出現するという。これは人間社会における技術革新、発明にそっくりだ。

「試行錯誤・集団・複数起源・組み合わせ。技術と自然のあいだに見られるこうした平行現象のすべてによって、技術者たちが自然のイノベーション能を模倣しようと試みるのは、なんら驚くことではない。私は単にバイオテクノロジーのことだけを言っているのではない。バイオテクノロジーの新機軸は、私の十年来の泥まみれのズボンを染み一つなくきれいにしてくれる洗濯用洗剤に含まれる酵素から、糖尿病に用いられる遺伝子工学製のインスリンや、食べた昆虫が死ぬような強力な細菌毒をつくるように遺伝子的に組み換えられた作物まで、すでに多数ある。バイオテクノロジーは生物学的な材料を使うので、自然の図書館をすでに利用している。より大きな疑問は、人工的な材料――ヤモールの場合の、ガラス、プラスチック、シリコン――のうえに築かれる技術が、同じことをできるかどうかである。

 工学者たちは、進化が一つのアルゴリズム、機械で遂行できるような単純で定型的なレシピに従っていることに気づいたときに、この疑問の答えに向かって大きな一歩を踏み出した。DNAを改変することによって、突然変異は新しい表現型をもつ生物をつくりだし、淘汰がそのうちの一部が生き残り繁殖することを許す。突然変異と淘汰。それを何度となく繰り返す。」(ワグナー同書p270-p271)

 そして、このイノベーションの能力は数学によって解明されたのである。「システム生物学の数学的な見方は、自然の図書館にある遺伝子型テキストのたじろぐほど複雑な表現型の意味を解読することをも許してくれる。それこそ、イノベーション能の理解にとって決定的なものである。それは私たちが知っているような生命をつくりだした、さまざまな種類の新機軸(イノベーション)――代謝、調節、および高分子における――の共通の起源であることを把握することへと導いた。遺伝子型ネットワークが、そのまさしく端緒から単細胞生物へ、細菌と真核細胞の祖先から何十億世代の時間をかけて、原始的なミミズ状の動物、魚類、両生類、哺乳類、およにはるばる人類にまで、生命を推進させてきたのである。」(ワグナー同書p292)

 ワグナーが指摘する通り、現代の進化生物学は数学によって環境に適した身体を作るための遺伝子型ネットワークを、一部でしかないが、解明することに成功した。しかし、数学的解析がいくら進んだところで、生物の進化の謎がすべて解明されたわけではない。逆に、ワグナー自身も認めているように、古い謎は新しい謎を次々に生み出す。結局は謎は深まるだけのような気がする。

 長い脱線をしたが、小林の本に戻ろう。

 小林の本の第2章は「そもそも生物はなぜ絶滅するのか」である。小林は第3章では生物の死に方を書き、第4章ではいよいよ「ヒトの死に方」を書いていく。ヒトの死に方には事故死、自殺、病死など、いろいろある。そして、現代日本においては、寿命死、老化による死がある。ヒトの体が死ぬこととはヒトの体を構成している細胞が死んでいくことから始まる。つまり、ヒトの老化はヒトの細胞の老化が始まりである。

 ここで小林は問う。「そもそもなんで細胞を老化させる必要があるのでしょうか?

 ――さて、ここでまた、この本の重要な視点となる『進化が生物を作った』に立ち返ってみましょう。老化という個体が選択されて生き残ってきた、と考えると、この細胞を捨てるような無駄な行為にも意味があるはずです。

 実はこの『老化の意味』はいくつか考えられます。ここでは一般的な説から紹介いたしましょう。

 もし細胞が老化して死なないとどうなるか、想像してみます。細胞の入れ替わりが起こらないので、どんどん古い細胞が溜まっていくことになります。そして時間とともに細胞の中身の構成成分が劣化していきます。

 例えば、細胞が生きていく上ではエネルギーを作らないといけません。具体的には細胞内でミトコンドリアが酸素呼吸を行い、糖を『燃やして』エネルギーを作り出す作業です。

 このときに副産物として必ず酸化力の強い『活性酸素』が生じます。リンパ球が細菌などの侵入者を殺菌、分解する際に、活性酸素を利用するなど、有効な使われ方もしますが、活性酸素には、細胞の構成成分(タンパク質、核酸、脂質)を酸化、つまり錆びさせダメにする副作用もあります。もちろんこのような錆を取り除く機能も細胞にはありますが、その機能自身も徐々にさび付いてくるので、細胞の機能は時間とともに少しずつ低下してきます。」(小林同書p146-p147)この機能低下した細胞は、がん化することもあるという。つまり「このがん化は、多細胞生物の持つ最大のリスクであり、宿命と言ってもいいかもしれません。」という。(小林同書p148)

 この「最大のリスク」を乗り越えるメカニズムの「一つが免疫機構で、もう一つが細胞老化機構」(小林同書p149)である小林は書いている。

 小林とはやや違った見方で、「生の更新としての死」のメカニズムについて田沼靖一がまとめている。

「細胞の死があって初めて遺伝子は多様化することに意味をもつようになった。さらに死による自然淘汰の作用によって遺伝子は進化することも可能になったと考えられる。この細胞の死は、細胞および個体の『生』にとってはどんな意味をもっているのだろうか。ここでもう一度、細胞死の要点をまとめながら考えてみよう。

 アポトーシスは、一義的には、『再生系の細胞に備わった細胞の消去機能』と言える。多細胞生物は、このアポトーシスの機構によって、発生過程における生物固有の体の形づくりができるようなった。また、成体のなかでは、老化した細胞や余剰につくり出されている細胞のうち不要となった細胞を除去している。さらに、アポトーシスによって、癌細胞やウイルス感染細胞などの有害となる細胞を排除することができ、生命体を守っている。このようなアポトーシスの生理的な役割を一口で言えば、細胞社会から成る生命体の統一性を計ることである。細胞の側からすると、アポトーシスによって細胞は個体の循環のなかへもどっていく。それは新たな細胞の新生のためにあるとも言えるだろう。しかし、アポトーシスによる再生系細胞の死は無限にくり返されることはできない。分裂寿命とともにその回数に限界がある。したがって、ここからも個体の死につながる道はある。

 一方、アポビオーシスは、遺伝子の存続のために、『非再生系の細胞に付与された個体の消去機能』と言えるだろう。アポビオーシスは、脳や心臓を構成する非再生系細胞の分化寿命を規定している。それが生物固有の寿命を本質的に決定していると考えられている。アポビオーシスによる個体の寿命によって、個体は自然の循環(小林のターンオーバー-引用者)のなかにもどることになる。これは、新たな遺伝子を組み込んで創出される個体のための生存の場をあける意味があるのだろう。

 一つの生命体のなかで、この次元の異なる二つの細胞死が遺伝子としてプログラムされていることにより、個体はその生命を維持しているとともに、必ず死滅することができるように仕組まれている。ここで重要なことは、前に述べたように、いずれの細胞死においても、生命のもとであるDNAが規則的に切断を受けるということである。このことから、遺伝子によって自身の遺伝子を消去することが細胞死の本質ではないか、と私は考えている。

 遺伝子の存続のために、死が遺伝子として細胞のなかに生来組み込まれているのである。そう考えると、この二重の細胞死は、いずれも『死』というよりはむしろ『生の更新』のために、多細胞生物が進化の過程で獲得してきた『生』のためのストラテジー(戦略)であると言えるのではないだろうか。この地球上に生息している多細胞生物が、同じ細胞死のシステムをもっていることからも、『死によって生を更新する』ことが、最も効率的かつ効果的な『生』の手段であるのではないかと考えられる。死は自分以外の生のためにあるのである。」(田沼精一『遺伝子の夢 死の意味を問う生物学』日本放送出版協会 1997年10月25日p156-p159)

 小林の言う免疫機構と細胞老化機構は、田沼ではアポトーシスとアポビオーシスの機構というものに対応する。細胞死に関して小林は「老化が死を引き起こすというのは、生き物の中でも特にヒトに特徴的ですが、『進化が生き物を作った』とすれば、老化もまた、ヒトが長い歴史の中で『生きるために獲得してきたもの』と言えるのです。」(小林同書p160)と結論づけている。

 私たち現生人類が老化によって死ぬという老死機構は現生人類が生き残っていくために獲得した機能であると小林はいう。死というものは私たち人間にとっては怖ろしい出来事である。ただ、人間以外の生物は「食われるか食えなくなって餓死します。これをずっと自然のこととして繰り返しており、なんの問題もありませんでした。つまりざっくり言うと、個々の生物は死んではいますが、たとえ食べられて死んだ場合でも、自分が食べられることで捕食者の命を長らえさせ、生き物全体としては、地球上で繁栄してきました。

 寿命で死ぬ場合も基本的には同じで、子孫を残していれば自分の分身が生きていることになり、やはり『命の総量』はあまり変わっていません。食う、食われる、そして世代交代による生と死の繰り返しは、生物の多様化を促し、生物界のロバストネス(頑強性、安定性)を増しています。つまり生き物にとっての『死』は、子供を産むことと同じくらい自然な、しかも必然的なものです。」(小林同書p163)

 産卵を終えたサケが死んだり、ムレイワガネグモの母グモのように、自らの体を子供たちに餌として与えたりと、「『死』と引き換えに『生』」があるのが自然界のあり方であると小林は書いている。死と引き換えの生というその過酷な出来事としてフランスの生物学者がフクロネズミの生態を紹介している。

「オーストラリアでは、一般にフクロネズミと呼ばれる小型の昆虫食の有袋類が、カゲロウのような激しく短い繁殖期を生きる。南半球の冬の終わりに繫殖期がくると、かれらの過剰な性行動――研究室で飼育実験すると十二時間までぶっとおしで交尾する――は二~三週で個体を死に至らしめ、一般的状況では急速に型どおりの体の変化が起きる。この変化はたぶん五〇%も重量が増える副腎が、コルチコステロイドホルモンの生産量を急上昇させるせいだろう。やせて毛が抜け落ちたフクロネズミは、免疫力を低下させ、しだいに攻撃的になる。消化器官に変調をきたしたかれらは潰瘍を悪化させることが多く、その出血のために貧血を起こす。すべてではないにしても、こうした体質の変化の大部分は去勢で予防できるので、この衰弱はまさに性行動によって起こる。体質の変化はメスがいなくても起きるが、そのばあいははるかに軽い。交尾しないオスは飼育下で三年生きることができる。これは自然界の寿命の三倍にあたる。自然界ではフクロネズミは父親に出会うことがない。早春の最初の出産の直前に、個体群はすべてメスになる。」(アンドレ・クラルスフェルド、フレデリック・ルヴァ『死と老化の生物学』新思索社 2003年5月25日p69)

 この特異なそして凄惨な生き方をする小動物のケースを見ると、個体としての一匹のフクロネズミの生とは一体何のためにあるのかと問いたくなる。ドーキンスが言った有名な「利己的な遺伝子」という言葉があるが、フクロネズミという遺伝子の乗り物の一つが果たして利己的なのか利他的なのかわからなくなる。田沼靖一は「利己的」と「利他的」の関係について書いている。

「生物の本質が自己増殖性であり、それを子孫を殖やす行為と考えると、生物は利己的であるということになる。生物のもとである遺伝子も、生物という乗り物を介して自己の遺伝子を増やすことに専念しているという意味では、ドーキンスが言うように利己的な存在であろう。事実、無性生殖を行うのは、細菌やアメーバのような通常一倍体でいる単細胞生物だけではない。二倍体の多細胞生物で複雑な形をした生物でも、無性生殖によって殖えるものはたくさんいる。例えば、ヒドラやイソギンチャクなどは、二つに割れるようにして個体が分裂して増える。また、一部が物理的に切断されてもそこから新しい個体として殖えていくことができる。ここでは、利己的な遺伝子によってただ殖えているように見える。ところが、栄養状態などの環境が悪くなると、雄と雌に分化して有性生殖によって殖えるように変身する。そうなると不思議なことに、死が現れてくる。このときの遺伝子は利己的と言えるだろうか。

 有性生殖のシステムをとるようになった生物では、利己的なだけでは生きていけないだろう。ここでは、単純に細胞が二分裂して殖えるのではなく、子孫を残すための特殊な生殖細胞をつくり、そこから減数分裂と遺伝子組換えによって卵子と精子をつくるシステムを編み出している。そして、同種の他の個体からの配偶子と合体することによって、一つの受精卵を産み、新たな個体をつくりあげていく。受精卵のDNAには、その種固有の個体をつくりあげる設計図がすべて包蔵されていて、ここから壮大な個体発生のドラマがはじまるのである。しかし、利己的な遺伝子に支配された細胞だけでは、このドラマはすぐに終ってしまうことになるだろう。とても精巧な体の形づくりや複雑な生命活動を維持していくことはできないからである。

 多細胞生物は、なぜこのような複雑で危ない過程を繁殖のためにたどれるようになったのだろうか。それはとりもなおさず細胞死の遺伝子を獲得したからである。自己と同じものをつくれない有性生殖のシステムと、個体の永遠性を失ってしまう死のシステムとの協同作用によって新しい生命体が生まれてくる。ここで、有性生殖のシステムは、本質的にはランダムな遺伝子組換えであり、利己的とも利他的ともいえず、むしろ中立である。死のシステムこそが、まさしく利他的な遺伝子の反映と言えるだろう。したがって、この細胞死をつかさどる遺伝子は、新しい個体にとって利他的に働いていることになる。」(田沼精一前掲書p159-p161)

「死の遺伝子は一見、生命の連続性をたち切ってしまうように見える。しかし、そうではない。遺伝子として死が組み込まれることによって生命の連続性が不連続的にたもたれているのである。それは、新たに配り直された遺伝子の存続のためにあることから、新たな細胞や個体にとっては利他的な死なのである。遺伝子はそれ自身増えることしか考えていないという意味ではドーキンスのいうように利己的ではあるが、それだけでは遺伝子自身の繁栄も進化も、結局は難しくなってしまう。恒存には自死性が必要なのである。つまり、『遺伝子が真に利己的(Selfish)であるためには、利他的(altruistic)に自死的(suicidal)である必要がある』ということになるだろう。長い進化の歴史のなかで、死の遺伝子が生き延びてきた理由はここにあると言ってもいいだろう。『遺伝子による遺伝子の消去』、すなわち自己放棄が、遺伝子を守ってきたことになる。細胞という生命体にとって最も根源的な個に発せられる死を支配している利他的な遺伝子が、全である個体を包み込み、そのなかに浸透している。この構図は、自然のなかに多層性をもって存在している。」(田沼同書p163)

 田沼のいうように「有性生殖のシステムは、本質的にはランダムな遺伝子組換えであり、利己的とも利他的ともいえず、むしろ中立である」ならば、フクロネズミの有性生殖は明らかに行き過ぎのように思える。

 人間の場合はどうなのだろうか。自らの身体に組み込まれた細胞死の遺伝子システムとその結果である自己という個体の死についての感慨は人それぞれ異なっているだろう。

 小林は正直に書いている。人間は「死に対する恐れは非常に強く、特に身内の死には大変なショックを受けます。私事で恐縮ですが、私の母は、夫(つまり私の父)が突然心不全で亡くなったときに、あまりのショックで『自分が違う世界にきてしまったように、全てのものが以前とは違って感じられる』と言っていました。配偶者や近親者の死は、間違いなくヒトが受ける最大級のストレスです。

 このように、死に対してショックを受けるのは、言うまでもなく、ヒトが強い感情を持つ生き物であるためです。喜んだり悲しんだりもそうですが、特に相手に同情したり共感したりする感情は、霊長類や大型哺乳類、鳥の一部にも見られますが、ヒトのそれは他の生き物より抜きん出て強いです。

 この同情・共感する感情は『優しさ』と言ってもいいのかもしれません。死を怖がる気持ちは、自分が死んだら周りの人が悲しむだろうな、苦労するだろうなという想像からもきています。この同情心(人に対する優しさ)、徳(全体に対する優しさ)などの人間らしい感情・行動は、やはり変化と選択の進化の過程で獲得したものです。つまり自分だけが生き残ればいいという利己的な能力よりも、集団や全体を考える能力のほうが重要であり、選択されてきたのです。そこから来る死に対する悲しみや恐れは、もっとも人間らしい感情と言ってもいいかもしれません。」(小林同書p164-p165)

 小林は「生き物が生まれるのは偶然ですが、死ぬのは必然なのです」という。つまり「死は生命の連続性を維持する原動力」(小林同書p202)だという。「『死』は絶対的な悪の存在ではなく、全生物にとって必要なものです。(中略)生物はミラクルが重なってこの地球が誕生し、多様化し、絶滅を繰り返して選択され、進化を遂げてきました。その流れの中でこの世に偶然にして生まれてきた私たちは、その奇跡的な命を次の世代へと繋ぐために死ぬのです。命のたすきを次に委ねて『利他的に死ぬ』というわけです。」(小林同書p202-p203)

 田沼は死というものが存在する意味についてこう書いている。

「『死』が自然科学の歴史のなかで表舞台に登場することはこれまでになかった。死は、自然科学においてマイナスのイメージしかなく、研究の対象とはほとんどならなかった。しかし、死の問題は、そのなかに計り知れないほど多くの内容を包含している。洋の東西を問わず、偉大な思想が死を原点としているように、自然科学においても『死』から『生』をとらえ直すことが、これからの新しい方向性の一つとなるであろう。『生から死へ』と認識する視点を、『死から生へ』と移し変え、さらに『死と生の環』と見ることによって、新たに生命真理が見えてくるのではないか。論語の『未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん』に反するわけではないが、死を理解することによってかえって生が理解しやすくなるのではないだろうか。『生と死の環』を理解することは、生命科学の最終命題でもある。死を科学することによって、人間の生命観や死生観に新たな視点が提供されることであろう。」(田沼同書p184)そして田沼は結論としてこう書いている。「与えられた必然の死を想い、自由な生を利他的なものとして生きることが人間本来の姿」(田沼同書p186)なのではないだろうかと。

 一個人の私にとっての死はやはり怖い。小林も書いている。「死は悲しいし、できればその恐怖から逃れたいと思うのは当然です。」と。「ではこの恐怖を、私たちはどう捉えたらいいのでしょうか。答は簡単で、この恐怖から逃れる方法はありません。この恐怖は、ヒトが『共感力』を身につけ、集団を大切にし、他者との繋がりにより生き残ってきた証なのです。(中略)ヒトにとって『死』の恐怖は、『共感』で繋がり、常に幸福感を与えていてくれたヒトとの絆を喪失する恐怖なのです。また、自分自身ではなく、共感で繋がったヒトが亡くなった場合も同じです。そしてその悲しみを癒やす、別の何かがその喪失感を埋めるまで、悲しみは続くのです。」(小林同書p203-p204)