地球の美しいものを見つけては、感動する日々でした。



私にとっては驚く程に美しい花々を見て感動しては、「どうした?」と友人に笑われたりしていました。



それは、歳を経ても変わらない私の特性でした。







数年前、スピリチュアルな情報に触れることが多くなりました。



霊性(スピリチュアリティ)について、あまりよく知らない私は、色んな情報の、どれもが正しく感じました。



「感動しない」ことが、霊性が上がった証拠だと書いてあるものを読みました。


確かに、激しく上がる↑ということは、激しく下がる↓ということなのです。


確かに弥勒菩薩が感情のアップダウンをするイメージはありません。



中庸でいようと言うことなのだと思います。







私は、「え?」と思い、「感動してきた自分」に、「罪悪感」のようなものを感じ始めました。



「感動している自分はまだまだなのではないか…」と、いつも穏やかで、感情の上がり下がりをしないように気をつけていました。



いつの間にか、ハートチャクラは閉じていました。

こうなるには、様々な理由があったのですが。

美しい景色や花々や自然を目にしても、あまりなにも感じなくなり、忙しく日々を過ごしていました。



コロナ禍と重なるように、多くの変化があり、もがくような2~3年間を過ごしていました。



親や大事な人たちの死が、このもがきの数年に終止符を打つようなきっかけとなりました。



もう一度、「ありのまま」の自分のエネルギーで生きたいと強く思いました。
「霊性」について、もっとちゃんと学び、知りたいとも思いました。





すると、私にとって、「感動する」とは、永続的に続いてきた素晴らしい才能なのではないかと、自分の持つものを肯定するように感じ始めたのです。



私にとって、地球の自然に心動かされ、感動するということは、周波数をあげていくナチュラルなことだったようです。



他の人には感じない美しさに、心が震え、音色を奏で始めます。その音色は光の粒のようにキラキラと、世界のあちこちに飛び散っていくイメージが湧きます。
「感動」のイメージです。



「在る」だけでいい、私らしく感動していれば。
そんな風に感じました。



きっと、一人一人誰もが、何らかの才能を持ち、「在る」だけで、この世界に貢献しているのではないかと思うのです。
この世界はそうなんじゃないか、と。







私は存在しているだけでよかったのです。



私は間違えました。



自分の感覚ではなく、スピリチュアルにしろ、普段の生活にしろ、ありとあらゆる場面で、他の人の感覚に合わせ続けていました。
内側にある大切なものを蔑ろにして、ないものを探し続けました。



自分にとって「苦しくなっていく現実」を選び続けたのです。



私は、私を信頼し、大切にしていなかったのだと、今ならわかります。



そして、だからこそ、「自分のまま」で生きることの大切さに気付けたのです。



ハイヤーセルフは、それに気付かせるために、もがくような数年をくれたのでしょう。











もし、何か腑に落ちないものが自分の中にあるならば、もう一度自分を信頼してみてください。



自分の感覚だけを信じてください。



他の人の感覚を大事にし、自分の感覚を置き去りにすることは、



「私」ではない現実の中を、「私」として生き続けることになるのです。
それは違和感でしかありません。
ざりざりとした、砂を噛むような、何らかのズレを感じることでしょう。



本当の自分のエネルギーで生きてみましょう。



それは、とても心地の良いことです。



そして、心地良いことが一番大切です。



「すべき」や「こうじゃなくては」に縛られるのは、自分の中の硬い縛りや観念が、鏡となって現実に現れているからです。



自分らしいと思う波長に耳を傾けて、思いっきり楽しんだり、弾けたり、夢中になったりすると、そのタガが外れていくきっかけになります。



私自身も、地球の自然の美しさに心震わせて、感動しながら生きるのが、本当の私のエネルギーだと、今ならわかります。



みなさんにとっても、「他の誰がなんと言おうとそれが私らしさなんだ」ということがあると思います。



そのままに生きてみましょう。




今の私は、そう提案します。