10-1 私が産婦人科分野の鍼灸師を目指した理由〜私の世界観〜 | アラフォー妊活・鍼灸師も遠周りさせない! 妊活栄養鍼灸専門家

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アラフォー妊活・妊婦さん、鍼灸師を遠回りさせない!
妊活栄養鍼灸チア協会 なちゅら鍼灸院 代表
妊娠症例3000例・逆子97.7%頭位医療論文著者
産婦人科領域病鍼連携 道南地域 唯一無二 実績No1!

第1章 10.私の世界観はこちら
 

昨日 第2章 11.私の世界観はこちら

をアップしたのですが、

音大在学中、家族の人生観が変わる出来事が他多々あったことを思い出し
10-'1として、1つ書くことにしました。
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大学2年生の夏、父が 縦隔洞腫瘍(両肺の間と心臓の間の腫瘍)が出来、
防衛大学に入院、手術を受けました。


そのオペは大変で人為的に肋骨を骨折、取り出して複雑な部位の腫瘍を摘出となりました。

私はこう書いていても思いますが、父のことを尊敬し慕っておりましたので
毎日所沢の防衛大学病院までお見舞いに行っていました。

その頃、父の鍼灸整骨院は、父の弟子たちで回していたことを記憶しています。
母はそのため、父のお見舞いには毎日は顔は出せず、
私が毎日お見舞いに行っていた感じでした。
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大学3年生の夏のある夜、父は心筋梗塞の発作を起こしました。

私は大学で遅くまで楽器を練習して帰ってくる日々

夜の11時くらいに帰宅がなることがほぼ毎日でした。

自転車で最寄り駅まで行ってJRを使って通学。

父は毎晩のように何時に駅に着くよと電話すると
駅に自転車で迎えにきてくれました。

その時、ふと「息が上がると胸がちょっと苦しく感じるな。」
とは思っていたそうです。

つまり狭心症にもうすでになっていたのです。
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ある晩、音大の友人(ピアノ科の友人)と夜家の電話で長電話をしていました。
(1990年代、携帯、PHSなんてない時代です)

夜中2時過ぎくらいだったと思います。

電話を切って、2階の私の自室で さぁ寝つこうと思って布団に横たわったら

1階で「うっ!」という声が聞こえた後、
母のワーっと騒ぐ声とそしてバタバタとする音が聞こえてきました。

何事だろうと1階に階段を降りて行ったら、母がすでに119にダイヤル
救急車を呼んでいました。

父は胸を押さえて、痛すぎるのと
精神力の強さから、中腰で1歩1歩 歩いているのです。

じっとしていられないほどの痛さなのがわかりました。

ほどなく救急車が到着。

救急指定病院でもある 仕事でもこいにしている整形外科病院にまずは到着しました。
私が小学校3年の時の朝、父が自動車事故し、まずは最初に搬送だれた病院でもあります。

深夜でしたから、すぐ出てきたのは、当直の若い男性の先生でした。

病院に駆けつけた当時、私の2歳年下の(医大)大学受験2浪目だった弟
(のちに麻酔科医になっています)が、

「診れねぇってどういうことだよ!院長出せよ!」
と その若い男性の先生に怒鳴りつけていました。

どこか冷静な私は、そうだよね、専門外だよね、診れないよね。と思いましたが…


父が絶大な信頼をしているその救急病院でもある
整形外科の院長先生に父はまずどうしても診てもらいたかったのでしょう。

とりあえず、院長先生がご自宅から急ぎでてきてくださって対応、
点滴してくださり、一晩入院となりました。

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翌朝 父に会いに行きましたら、ずーっと左手が痺れてるとのこと。

 

縦隔洞腫瘍の術後の癒着なども一時疑われたそうですが、

心筋梗塞を疑い 自治医大 大宮医療センターに転院搬送になりました。

 

そこで

 

冠状動脈の カテーテル下 バルーン処置(広がらず)→削ってステント

 

の処置になりました。

 

もちろん 退院前に 食事栄養指導があり そこで 管理栄養士さんにお会いしました。

 

私から6歳年下の妹その1は 高校卒業後

その父の経験があって 栄養専門学校に進学

産婦人科栄養士経験後、保育園栄養士となり

業務経験を重ねて 社会人になってから

管理栄養士の国家資格を取得しました。

(社会人になってから管理栄養士ってすごく狭き門だそうです。)

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当時 父 47歳。

 

現在 私 44歳。夫 48歳。

 

子どもを持った年齢が違うものの

 

今考えてみても すごく 身につまされる出来事です。

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当時 私 21歳。弟 19歳。妹1   15歳。妹2  9歳。

 

現在 私 44歳 夫 48歳

(長男がここに居ないのはいずれ書きます)

次男 5歳 三男 2歳


病気も ガンも 認知症にもなれないのです。

 

高齢出産育児たるもの 健康で長生きし 

成人までは 育て上げるのと

 

私自身は孫の成長をみたいと思っています。

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父は この時 糖尿病 境界域でもありました。

 

父の鍼灸整骨院は やはり 母と父の弟子で 回し切ったのでした。

第2章 11.私の世界観はこちら