くノ一養成学校校長『望月千代女』は夫が信玄の甥っ子というセレブ姫 | ナツレのツレヅレなる何か

くノ一養成学校校長『望月千代女』は夫が信玄の甥っ子というセレブ姫

『どうする家康』の「第9回 守るべきもの」で、古川琴音さん演じる謎の妖艶な美女の正体が明らかになりました。なんと彼女は武田のくノ一「望月千代女」だったのです☆

 

『望月千代女』は忍者好きならば誰もが知っているアイドル女忍者なのでご紹介。

 

■彼女はくノ一たちを纏めるリーダーでした。

望月千代女は信州の望月城のお姫様で、武田信玄の甥の奥さんでした。千代女自身が甲賀望月氏の出身で信州小県の望月氏に嫁いできたという説もあるようです。

 

いずれにせよ、夫が討ち死にして後家となると、信玄から忍者の頭領に抜擢されました。そして、信州小県禰津古御館(ちいさがたねづふるみたて)に移って、戦災孤児などから見た目の良い少女を2~3百人も集め、「禰津流くノ一」養成学校ともいえる集落を作りました。

ここを巣立ったくノ一が武田の透破(すっぱ)として有名な「信玄の歩き巫女」といわれ、各地に散って情報収集にあたりました。

「歩き巫女」は、特定の神社に属さないで全国を渡り歩き、祈祷や託宣などを行って生計を立てていました。手形がなくても関所を通ることができる特権も持っており、忍者に最適な職種だったと言えます。

 

千代女は「信濃巫(しなのみこ)」と呼ばれる歩き巫女の頭でした。彼女が育てた娘たちは春から秋まで旅をしながら諜報活動をおこない千代女に情報をもたらしたのです。

ちなみに信濃の歩き巫女自体は、明治初期まで関西地方にまで姿を現していたそうです。

 

望月千代女 MOCHIZUKI, chiyome

望月千代女(もちづき ちよじょ/ちよめ)

信濃小県望月氏の室。

永禄4年(1561)、第四次川中島合戦において信玄の甥である夫が戦死。信玄より信州小県郡禰津村に修験道場を開くことを命じられ、歩き巫女(女忍)の養成にあたった。

信玄の死後、武田家より「甲斐信濃二ヶ国巫女頭」に任じられ重きをなした。

 

■望月千代女の考察

さて、千代女さんは信玄の甥である望月盛時の妻と言われていますが、この望月盛時という人物が特定できないのです。そこで、該当する人物として信玄の弟信繁の二男である、望月信雅(もちづきのぶまさ)と推定されてきました。

しかし、これまで望月信雅は長篠の戦いで亡くなったとされていましたが、現在は天正17年(1589年)以降も存命していたことが判明しています。

そこで私見ですが、同じ養子として迎えられた武田信繁の長男・信頼(のぶより)の方が、千代女の夫としてふさわしいと考えます。彼は川中島の戦いに参加しており、没年は永禄7年(1564年)9月21日とされています。病没とされている一方、戦死したとする説もあるため、こちらの方が伝承に合致すると思うのですがいかがでしょう。

 

もっと無責任な妄想を進めるならば、永禄4年(1561年)、第四次川中島合戦で重傷を負った望月信頼が3年後の永禄7年(1564年)に没したとすれば、川中島で戦死という伝承とも矛盾しないと思われます。

(なお、ネットのWikipedia情報だと、川中島の直後に亡くなったとの記述がありました。ただ私では何処の文献から引いてきたものかわかりませんでした)

放送直後に書いたのときの挿絵はAI絵師にじジャーニーさんにお願いしました~(コッチのほうが評判良さそう・・・)

 

 ■どうする家康の千代女

さて、望月信頼は18歳という若さでこの世を去りました。彼の奥方である古川琴音女さんも同じくらいの年齢だったと仮定すると・・・。夫の看病に全力を尽くしましたが、若くして未亡人となってしまいます。しかし彼女は、それまで家を支えてきた才を見込まれ、忍者養成の村で指導者として抜擢されました。そこで、同じような境遇にある女性たちに忍びの術を生きるための知恵として教えたのです。

その手腕を認められ、彼女は阿部寛入道信玄の側近として頼られるまでの存在となった。

・・・このような背景が、本證寺の古川琴音千代女さんにもあったんでは・・・あ~、妄想がとりとめなくなってきた(汗)

 

こういう妄想が楽しいンですけど、このへんで~

てへ

 

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