朝倉景鏡 | ナツレのツレヅレなる何か

朝倉景鏡

朝倉義景さんの従兄弟の朝倉景鏡(あさくらかげあきら)さんをカキカキアート

令和2年(2020)NHK大河ドラマ『麒麟がくる』にも登場。強烈なアクのあるキャラクターを手塚とおるさんが演じられておりました。ニコニコ

登場のインパクトが強烈だったので、朝倉氏との対立の場面ではイロイロ活躍するものと思っておりました。しかしザンネンながら朝倉義景さんの最期を引き立てるくらいしかその後登場なく・・・。しょぼん

 

朝倉氏の重鎮としてほかに、忠臣として有名な山崎吉家(やまざきよしいえ)さんも登場していました。ここに榎木孝明さんを配したのは良いコントラストになると思って観ていたのですが。その“榎本吉家“さんも、有名な伝説の名場面。刀根坂の戦いで踏みとどまって織田勢を五度も押し返したというシーンが再現されることもなくナレ死なされてしまいました

※ナレ死=ナレーションだけで死を宣告されること

 

コロナ禍のせいか後半は合戦シーンが全く無くなってしまったのが惜しまれますねぇ・・・。

ユースケ・サンタマリアさんの義景さんの甲冑なんてかなりカッコ良いつくりでした。結局そのお姿は最期でしか観られなかったのは残念に思いました。しょぼん

 

朝倉景鏡(あさくらかげあきら)さんの方は、清々しいほど見苦しい裏切りキャラとしてご登場にひひ

 

個人的に、この“景鏡(かげあきら)”ってお名前が好きなんですよね、まるで戦国武将のような(!?)ムチャムチャかっこいい響きだと思いません!?。

それで割と気にかけて史料を追っかけていた武将さんでした。なので、悪役でしたが今回、映像化されたお姿を観られて大変嬉しかったですラブラブ!


ナツレのつれづれなる何か-大野郡司 朝倉景鏡 朝倉式部大輔 土橋信鏡 あさくらかげあきら

 

朝倉景鏡(あさくらかげあきら) 孫八郎、景鏡、式部大輔(しきぶのたいふ)、土橋信鏡(とばしのぶあきら)

朝倉氏の重鎮で大野郡司。朝倉式部大輔(あさくらしきぶのたいふ)の呼び名が有名。

朝倉義景の従兄弟。父は朝倉9代目当主貞景(さだかげ)の二男で大野郡司であった朝倉景高(かげたか)とされる(浅羽本日下部系図)。ほかに朝倉経景(つねがげ)の四代孫とも(心月寺本朝倉系図)。母は一説に景高妾の權中納言烏丸冬光女(尊卑分脈)。

 

永禄11年(1568)5月17日、朝倉義景は關白二条晴良を越前に迎え義昭共々自邸に招いて宴会を開いた。その際に足利義昭に拝見した順序は、一に景鏡、二に景健(かげたけ)、三に景尚(かげなお)の順であった(當代記)。ここから朝倉家の中での景鏡の地位は義景に次いだ、即ち義景家臣団の中では最高位と推定されている。  

敦賀郡司朝倉景紀(かげのり)とは同名衆筆頭を争いことごとく対立したという。

 

元亀元年(1570)4月、織田信長の突然の越前侵攻に臨んで府中まで出陣する。その先には進まず金ヶ崎城への合力をしなかった(越州軍記)。

4月30日、浅井長政の裏切りにより織田軍が撤退すると、魚住景固・山崎吉家ら2万余騎の追撃部隊を編成し近江へ出張った。しかし既に信長撤退から11日も経っており、織田勢とは戦わず帰国した。

その後の姉川の戦いこそ出陣しなかったが、信長との抗争ではしばしば義景の名代として近江の浅井長政支援へ出陣。宇佐山攻めに参加し織田信治・森長可を撃破。堅田攻撃では坂井政尚を討ち死にさせる活躍をみせた(歴代古案・淺井三代記)。  

 

天正元年(1573)8月、義景の近江出陣に際し「所労、もってのほか」と同行を拒否した(越州軍記)。義景が刀禰坂で破れ一乗谷まで織田勢に攻め込まれたおりは大野落ちに同行した。しかし突然裏切り、そのまま義景を自害に追い込んだ。その義景の首級をもって信長に投降し許された(小川文書・公記)。

その後、信長より大野城を安堵された(公記・朝倉記)。  

 同年11月、上洛し信長に饗され、この時姓を「土橋(とばし)」と改めたという(朝倉記)。天正2年以降の書状を見ると、書名を「信鏡(のぶあきら)」としている。ここから姓とともに信長の一字も賜わったものと推定されている(桜井文書・石徹白文書)。  

 

天正2年(1574)4月15日、この年1月に蜂起した一向一揆の攻撃を防ぎきれず平泉寺にて討ち死にした(朝倉記)。 

その死に際し、大野の民に「日の本に隠れなき名を改めて果は大野の土橋になる」との狂歌を残された(朝倉記)。

 

 

この景鏡さん、朝倉始末記など軍記物で心は勇猛な武将であるが元来不道徳な人という評判をもらっているお方ですシラー

なお、景鏡さんの父親は景高(かげたか)とするのが現在の主流なのです。でも、その景高さんって、朝倉一門の筆頭でありながら朝倉宗家へ謀反を企てるも失敗し没落したという御仁なんです。通説の通りなら親子二代にわたり朝倉一門の筆頭ながら造反した親子ということになります得意げ

親子二代の謀反なんて斎藤家の松波庄五郎から斎藤道三義龍まで三代連続の裏切りの系譜に比べれば可愛いものですが・・・。景鏡さんの場合は朝倉氏滅亡のホント土壇場で裏切ったことが見苦しいされ当時から後ろ指をさされたようです叫び

ただ、裏切りには寛容でも、見苦しい土壇場の裏切りは絶対許さんという信長さん。その彼がただ赦すだけでなく、名前の一字まで与えたというのは意外にカンジがします。

ひとえにそれは羽柴秀吉の取りなしがあったればこそと伝わってはおりますべーっだ!でも、実際は前もって誼を通じてたんではないのか?〜などその辺りの詳しいトコに興味がわきます。

 

また、降伏に際し一子を秀吉の養子(人質)として差し出したと云われていますが、この子こそ秀吉最初の子とされている石松丸といわれます。べーっだ!

(近年では石松丸は長浜時代の側室南殿と秀吉の間にできた実子との説もとなえられています右矢印淀殿

 

もっとも越前の支配権については、先だって正々堂々(?)織田方へ寝返った家来すじの前波吉継(まえばよしつぐ)に渡されてしまいました・・・。名門朝倉一門の筆頭としては、その風下にたつのは複雑な心境だっただろーなぁと思われます得意げ

 

個人的には滅亡時のお話より、義景時代の景鏡さんの朝倉家中でのヒエラルキーが気になっております得意げ

先にのべた通り朝倉景鏡は前の当主孝景を裏切った景高の子とされています。そんな景鏡さんが朝倉氏No.2にまで上り詰められた(返り咲いた)経緯はなんだったのだろうと・・・。

武勇がある人物とは伝わっていますので長音記号2その地位に這い上がれる程の武功をあげていた。その武勇を愛でられ信長にも取り立てられた。そういう解釈もロマンがあります。アップ目

・・・でも、ヒョッとして没落して這い上がったのではないならはてなマークつまり最初から父とは行動を別に・・・。父を裏切って・・・叫びとかとか、なかなか妄想が膨らむシチュエーションだと思いませんか。

 

父の朝倉景高は、謀反に失敗したあとの亡命先で本願寺勢力へ越前を売り渡すかのようなかなり際どい取引を持ちかけています。また、本願寺の助力で越前攻略を企てていた証拠の文書も残されていたりもしています(証如上人日記)。目

しかし一方の景鏡さんは、加賀一向一揆の大将争いをしたり、加賀へ通じた一族を追放したり。朝倉滅亡後に起きた越前一向一揆にでも、最期まで敵対しました。他の同門衆や武将が一向宗の勢いが強いとみるやことごとく信長から寝返ったのとは対照的です。一貫して一向宗(本願寺)を敵としてみていたように思えます。

最期も、越前で起きた一向一揆に対しわずか3騎にまで討ち減らされたにもかかわらず、壮絶な突撃を仕掛けて落命したと伝わっています・・・。えっ合掌。

 

ところで景鏡は、悲主流の心月寺本朝倉系図では、朝倉経景の四代孫とされております。こちらの説を取れば、その勇猛さから義景の信任をえて、謀反し没落していた景高の大野郡司の名跡を継いだということになります。個人的にはそちらの方がしっくりくるのですが・・・。シラー

その他にも景高の子が没落後駿河を頼ったという記録。景高は安居を領有していたが、その安居の姓は景健(姉川の戦いの朝倉大将)が継いでいる。これらから朝倉景鏡は景高とは別系統と考える方がイロイロしっくりくる気がするのですがいかがでしょうか。

これらはひとえに朝倉氏系図に混乱がある為だと思えるのですがぁ。長音記号2

 

こっからは収集つかなくなるので専門の研究者さんにお任せしてこの辺で・・・。にひひ

 

ただ、この方はもっと丁寧に生い立ちから辿っていったらガラっと違う面影を見せてくれそうなので長音記号2。今後の研究がすすむのを楽しみにしておりますニコニコキラキラ

 

 

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