千利休
今回は千利休(せんのりきゅう)さんをカキカキ
NHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』では石坂浩二(いしざかこうじ)さんが好演されてました
私は肖像画を見たとき七人の侍の志村喬(しむらたかし)さんのイメージだと感じたのですがみなさんいかがでしょう
観たこと無いのですが志村喬さんが演じた利休の映画があるとか…
そこからイラストも志村喬さんで・・・と思って描いてたんですが~
時代劇専門チャンネルの鬼平犯科帳を観ながら描いてたらちょっと中村吉右衛門が
あぁ中村吉右衛門さん人間国宝認定おめでとうございま~す
…って脱線
千利休は戦国時代のみならず日本文化史上の功労者ですしその死も謎めいていますので小説その他の題材として数多く取り上げられて有名です
1989年に映画で『利休』と『千利休 本覺坊遺文』という二本が同時期に公開され耳目を集めた事もありました
今なら漫画からBSプレミアムでアニメにもなっている【 へうげもの 】に出てくる利休が凄味がある強烈な個性を出しているので見てみて欲しいです※千利休(せんのりきゅう) 実名:田中與四郎(たなかよしろう)、法号:宗易(そうえき)、茶号:利休、
堺の魚屋(ととや)田中與兵衞(たなかよへえ)の息子。
早くから茶の湯に親しみ武野紹鷗(たけのじょうおう)に師事した。
天文年間から宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)を号して茶会を開いた記録がある。
元亀2年(1571)、織田信長が堺で名物狩りを企図した際に茶を点て、天正初年頃にはその茶頭となった。
天正10年(1582)信長が惟任光秀(これとうみつひで)の謀反で没すると羽柴秀吉に仕えた。
天正13年(1585)、正親町天皇(おおぎまちてんのう)に茶を献ずる禁中茶会がもようされ、利休居士(りきゅうこじ)の号が勅賜された。
天正15年(1587)津田宗及・今井宗久とともに北野大茶会(きたのだいさのえ)の茶頭を勤めた。
天正17年(1589)大徳寺聚光院(だいとくじじゅこういん)の山門の修造を寄進したが、天正19年(1591)大徳寺山門上に置かれた利休木像が問題化され秀吉より切腹を命じられた。
同2月28日京都の自邸で切腹。享年70歳。
その首は一条戻橋で大徳寺三門の利休木像に踏ませるかたちで梟首されたという。
この略歴の~切腹という最期は「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)」とまでいわれる権勢を誇った千利休と秀吉の間に何があったのか
歴史ファンの「なぜ?」を刺激する題材で侃々諤々の論争が続いています
・茶器の売買で不当な利益を得ていると指弾されたこと
・後ろ盾の豊臣秀長が歿したことと、その頃には利休権勢の源である堺の重要性がを低下しており、その地位が不安定になったこと
・山門の上に利休像を安置したことがすなわち山門をくぐる貴人への不敬罪にあたること
・この頃完成に到達しつつあった利休のわび茶が厳格に過ぎ秀吉の不興を買ったこと
その他多数要因は唱えられていますが~
肝心の切腹をさせた秀吉自身よくわかっていなかったりするのではないかと思える言動や文章があり、歴史ファンの妄想()はつきません
戦国人名事典 / 阿部 猛
¥ 3,990 / ユーズド ¥ 2,100 [ 定価 ¥ 3,990 ] Amazon.co.jp
闇の日本史―国民の知らない歴史〈3〉 (ワニ文庫) / 中津 文彦
¥ 590 / ユーズド ¥ 1 [ 定価 ¥ 590 ]
戦国時代人物事典 / 歴史群像編集部
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歴史おもしろかくれ話 (知的生きかた文庫) / 小和田 哲男
ユーズド ¥ 1 [ 定価 ¥ 520 ] Amazon.co.jp
NHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』では石坂浩二(いしざかこうじ)さんが好演されてました
私は肖像画を見たとき七人の侍の志村喬(しむらたかし)さんのイメージだと感じたのですがみなさんいかがでしょう
観たこと無いのですが志村喬さんが演じた利休の映画があるとか…
そこからイラストも志村喬さんで・・・と思って描いてたんですが~
時代劇専門チャンネルの鬼平犯科帳を観ながら描いてたらちょっと中村吉右衛門が
あぁ中村吉右衛門さん人間国宝認定おめでとうございま~す
…って脱線
千利休は戦国時代のみならず日本文化史上の功労者ですしその死も謎めいていますので小説その他の題材として数多く取り上げられて有名です
1989年に映画で『利休』と『千利休 本覺坊遺文』という二本が同時期に公開され耳目を集めた事もありました
今なら漫画からBSプレミアムでアニメにもなっている【 へうげもの 】に出てくる利休が凄味がある強烈な個性を出しているので見てみて欲しいです※千利休(せんのりきゅう) 実名:田中與四郎(たなかよしろう)、法号:宗易(そうえき)、茶号:利休、
堺の魚屋(ととや)田中與兵衞(たなかよへえ)の息子。
早くから茶の湯に親しみ武野紹鷗(たけのじょうおう)に師事した。
天文年間から宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)を号して茶会を開いた記録がある。
元亀2年(1571)、織田信長が堺で名物狩りを企図した際に茶を点て、天正初年頃にはその茶頭となった。
天正10年(1582)信長が惟任光秀(これとうみつひで)の謀反で没すると羽柴秀吉に仕えた。
天正13年(1585)、正親町天皇(おおぎまちてんのう)に茶を献ずる禁中茶会がもようされ、利休居士(りきゅうこじ)の号が勅賜された。
天正15年(1587)津田宗及・今井宗久とともに北野大茶会(きたのだいさのえ)の茶頭を勤めた。
天正17年(1589)大徳寺聚光院(だいとくじじゅこういん)の山門の修造を寄進したが、天正19年(1591)大徳寺山門上に置かれた利休木像が問題化され秀吉より切腹を命じられた。
同2月28日京都の自邸で切腹。享年70歳。
その首は一条戻橋で大徳寺三門の利休木像に踏ませるかたちで梟首されたという。
この略歴の~切腹という最期は「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)」とまでいわれる権勢を誇った千利休と秀吉の間に何があったのか
歴史ファンの「なぜ?」を刺激する題材で侃々諤々の論争が続いています
・茶器の売買で不当な利益を得ていると指弾されたこと
・後ろ盾の豊臣秀長が歿したことと、その頃には利休権勢の源である堺の重要性がを低下しており、その地位が不安定になったこと
・山門の上に利休像を安置したことがすなわち山門をくぐる貴人への不敬罪にあたること
・この頃完成に到達しつつあった利休のわび茶が厳格に過ぎ秀吉の不興を買ったこと
その他多数要因は唱えられていますが~
肝心の切腹をさせた秀吉自身よくわかっていなかったりするのではないかと思える言動や文章があり、歴史ファンの妄想()はつきません
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