『自己肯定感』なんてないと思っていた私ですが、ある時に「根拠のない自信を持っているよね」と言われて驚きました。
(2023.07.17 下書き)
おはようございます。
夏海の部屋の夏海です。
『アイデンティティ』をテーマに書いたこちらの記事の続きです。
👇 あああ💦下書きのままもうすぐ一年になる😅
移住する2年前に、ボディメンテナンスも任せていたカフェの店主から酷いマウントを取られ、「生まれた地点に戻って育ち直さないと私に未来はない(二度と同じことで奈落の底に落ちるのは嫌だ)」と思い、1年掛けて私を育て直そうと高額セッションを申し込みました。
申し込み先の相手は、本音しか聞き入れてくれず、嘘は必ず見抜かれました。
「かっこいい言葉を使うな」と、自分を守る為に修飾する言葉も言い訳も一切許して貰えず、本音だけを伝え続け、自分の中にある本音を認め続けました。
『夏海のお部屋』のテーマ(カテゴリ)の中に、『内臓を覗いてみた』と言うものがありますが、己の腹の底にある汚い部分(隠している本音)を一旦出して認めてしまわないと、その真っ黒な本音が隠しているものは見えて来ません。
自己嫌悪に陥るものも、穴を掘って入りたいと恥いるものも全部が、今の私を作っているものだと降参して、一旦全部を受け入れてしまい、静かな気持ちで眺めてみるのです。
ハリーポッターの校長が覗いた憂いの篩(うれいのふるい)を覗くように。
https://warnerbros.co.jp/franchise/wizardingworld/special/objects/pensieve.html
自己肯定(感)と言うものは、自分の良いところだけを認めることではなく『私』を丸ごと全部受け入れるところから始まるのではと思います。
そして、その認めた自分を表に出すのか出さないのかを自分で選ぶんです。
表に出す『私』を自分で選ぶんです。
そして、自分で選んだ以上は自分で責任を持つんです。
『そのように』思われたいなら、そのように思われるような行動を、
『そのように』思われたくないなら、そのように思われないような行動を、
『そのように』扱われたいならば、そのように扱われるような行動を、
『そのように』扱われたくないならば、そのように扱われないような行動を、
私たちは自由に選び取ることが出来、自由に行動することができます。
夏海のお部屋の夏海も私。
移住者なつみんも私。
派遣で働いている私も私。
どんな私も私で、無理をして偽っていないので楽になりました。
どこで誰と話していても、私でいられるって楽で良い。
前回の記事で、
「自分を守る為に、瞬時に『そこ』に馴染める水のような存在として、自在に変わることを是として不自由に生きて来た」と書きましたが、
水のようにその場に馴染むこと自体は悪いことではなく、自己肯定感を下げるものではないのです。
不自由さを感じていたのは、私がそんな私でいることを選んでいなかったからであって、『水のように自在にその場に合わせられる』という特技が自己否定の材料になってしまっていたのは、『選んでいなかった』ので、『変化しないこと』を選ぶことができていなかったからだと思います。
「こんなの私じゃないのに」の『こんな私』は、私が選んで表現した私ではなかったのに、『こんな私』がウケてしまって表現し続けなければならくて、自分じゃない自分を頑張って演じ続けなければなからかったから。
「こんなの、私じゃない」の『こんなの』を辞めるには勇気がいるけれど、でも私じゃない『こんなの』を全部やめる必要もなくてね。
(そもそも自分の中に存在しないキャラクターにはなれないもんだよw)
無理をしている部分にだけ注目してみれば良いんじゃないかな。
誰かの為に私が存在するのでも、
誰かの為の私が存在しているのでもなく、
私がただ私として存在していること。
私のままでそこに存在しているだけで良い。
私が私であるだけで良い。
そんな『私』と再会する為に、自分をよく観察してみるところから初めてみませんか?
【編集後記】
ふぅ。
約1年ぶりに完了しました。
(恐らく構想はその1年前かと思われる😅)
↓自分を否定しないって?
https://ddnavi.com/serial/jibun_hiteishinai/
私たちが自分を肯定できないように躾けられて来た、その躾が自己肯定感の低さの原因ならば、
今必要がないのであればその言いつけ(躾)通りの生き方を拒絶すれば良いんです。
自分のことは嫌いだけれど、そんな私を丸ごと愛してと他人にお願いするよりも、自分が自分を愛する方が他人を動かさなくても良い分手っ取り早いと思うのですが、いかがですか?