リトルの目の治療のお話し

今回はちょっと番外編です

 

前回まではコチラ

 

 

最初から読む方はコチラ

 

 

 

仕事を終えて保育園へ迎えに行くと‥

 

毎日のようにメガネはひん曲がっていて

どうしてもっと大事にしないの!と

 

一日保育園で過ごして駆け寄ってくるリトルを

開口一番叱ることもあった

 

まだ3歳‥無理な話だ

今ならわかるけれどあの時は必死だった・・

 

 

 

当時の私は‥以前にも書いた通り

2つの仕事を掛け持ちしていた


子供たちには小児ぜんそくがあって

小児科へも頻回に通い

夜は週2でスクール通い‥

 

子供たちの身の回りの事 家の事

夫との離婚のこと、、

考えることが毎日山のようにあった

 

 

いつも寒い雪山のエッジの上を

一人で歩くような気持ちで‥

精神的にギリギリのところにいたように思う

 

 

一番準備と実行に神経を尖らせたのは

元からしていた外回りの仕事の

2か月に1度の東京出張だった

 

 

この仕事を始める時‥

この出張会議に参加できることが

採用の必須条件で

面接の一番最初にもこれを確認された

 

 

 

出張と言っても泊りが必須ではなく

日帰りするならそれも良しということだったし

 

その頃は夫婦関係がまだマシな方だったので

家でも旦那さんに相談をして

 

東京出張の時は

子供たちをお願いできることになり

大丈夫ですと答え採用された

 

 

でも子供たちを見てもらったのは最初の数回

記憶も曖昧ですが‥出張のために

子供たちを見てもらったのは2回です

 

 

でも時の経過と共に夫婦関係はこじれて

顔も合わさず活字でのやり取りも無い中で

出張の事などは頼みづらくなっていった

 

元の旦那さんは仕事がとにかく忙しかった

でも仕事を隠れ蓑にして

別の場所にいた時期が過去にあったから

 

私は‥

もう真実を探りはしない

でも旦那さんを信じることもどうしても出来ない

 

という状態だった

 

埃が出るからもう叩きはしない

埃でむせて辛い思いをするのは嫌‥

 

そうならないように自分を守っていた

自分を守らないと

子供たちを守れなくなると思っていた

 

 

出張が近付いても

そんな私を向こうが気にかけるはずもなく

 

一度は‥仕事を終えた前日の夜に

子供たちを連れて2時間かけて実家に帰り

 

2人を実家に預けて地元の空港から東京へ‥

ということもしてみたけれど

 

前後の子供たちの心や

自分の体にかかる負荷を考えると

何度もできることではなく

 

次第に泊りを諦め

日帰りをするようになっていった

 


 

当時子供たちの保育園は朝8時に開園

でも朝7時から8時の間は

 

月の保育料とは別料金で預けることが出来

東京出張の時だけこれを利用した

 

 

当日は朝6時半に車で家を出て

車も心もアイドリング状態で保育園前に待機

 

7時に門が開くのを待って2人を預けると

最寄り駅近くで借りていた月極駐車場まで行き

車を置いたら駅まで猛ダッシュ

 

駅から出ていた空港行きのシャトルバスに

文字通り飛び乗る

 

この発車が7時30分だった

 

 

空港までは1時間弱

着いたら一歩も止まらずに搭乗手続きをして

9時の飛行機に乗る

 

羽田に着いたらモノレールから

山手線に乗り換えて会社の本社まで

 

順当に行って

会議室の椅子に座ることができるのは

11時30分を少し回る頃

 

全国から同じ職種の人が集まる

定例会議は12時からで

用意されたお昼を食べながらキッチリ2時間

 

 

今思ってもとっても面白い会社と

取り組みだったなぁと思うけど

会社のことや会議内容は割愛

 

 

14時に終わったらすぐに

雑談する他の地域の人をしり目に本社を出て

 

来た時とは逆のルートで羽田に戻り

15時30分の飛行機に乗る

 

 

17時に地元の空港について

17時30分発のシャトルバスに乗るけど

 

空港から市内の中心部を抜けるには

朝と違って概ね渋滞するため

 

乗車して30分後

シャトルバスが最初に停車する

市の郊外でバスを降りたら

 

そこで地下鉄に乗り換えて

市内をビューンと横断して地元の駅まで

 

この時点で18時半

保育園には延長依頼をしてあって

それでも最大で19時まで

 

地元の駅に着いてからは

地下鉄のドアが開くやいなや走り出し

 

ノンストップで階段を駆け上がって

駐車場まで一度も止まらずに走って

 

走って‥走って‥

 

車に乗り換え5分で保育園へ

 

 

ステージクリア!とボタンを押す勢いで

毎回ギリギリに駆け込んでいた

 

いつも一人心の中で

SASUKEか!!と突っ込んでいた

 

 

何か一つでも計算が狂ったら

私の代わりに子供たちを

迎えに行く人は居ない

 

あんな綱渡りをどうしてできたのか‥

 

 

ただあの頃最後の保険として

元の旦那さんにメールで頼んでいた

 

いついつは日帰りで東京に行きます

19時の閉園にどうしても間に合わない時は

子供たちを迎えに行ってもらえませんか と


 

わかりました

羽田で間に合わないとわかった時点で

連絡して下さい

 

返信には毎回こう書かれていて

 

でも最後はそのお願いメールを月末を理由に

難しいです と一言返され

 

 

困って‥

 

困ってどうしたのかもう記憶は曖昧‥

憶えているのは断られたメールの

返信の文字だけだ

 

 

 

けれどこの出張で

子供たちのお迎えに間に合わなかったことは

一度もなかった

 

いつもあんなに頻回に

喘息発作を起こす子供たちが

 

出張のタイミングで体調を崩して

行けないということも一度もなかった

 

 

本当に2人ともとても頑張ってくれたと思う

 

朝から12時間預けられて

一番最後にお迎えに行く私に

2人が飛び込んでくる姿を

 

ゴ――――ル!!という思いで

受け止めていたのは鮮明に覚えている

 

 

 

当時会議の時に撮った集合写真を

今になって改めて見てみると

 

私はとっても元気に

にこやかに そこに居る

 

どうしてこんな風に

笑えてるんだろうと思うくらい

 

 

産後働くことから離れて

子供たちを育てることに

まい進してきたものの‥

 

その暮らしを子供たちを私自身を

要らないと言われて‥

 

あの頃自分と自分のそれまでを

否定してばかりいた私にとって

 

たくさんの人に会いミッションをこなすことで

誰かに必要とされていると思わせてくれた

仕事の存在はとても大きかった

 

心にどんな暗部があっても

あんな風に笑えていたのは

 

無条件で私を必要としてくれる

子供たちの存在の他に

仕事があったからかもしれない

 

 

それでも

 

それでも思うのだ

 

人の心の中の渦巻く気持ちは

決して表面からはわからないものだと

 

何か悩みがあるらしい顔をしている人は

話しを聞いて欲しいと思っている人

 

けれど人に話したところで

どうにもできない気持ちを抱えている人は

表面上は案外元気そうに笑っていて‥

 

 

そういう人がある日突然

いなくなったりするのだろうな‥と

 

 

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ナツ