その三日後。

老人の言葉通り、船は遥か東の太平洋を目指して航行を開始した。結局、このシーズンは14回漁へと出港することとなった。そこで私が見た景色はこの人生を実に豊かなものにしてくれた。水平線に上る紅く大きな満月、夜と朝の間に現れる萌葱色の閃光。自然とはかくも見事なり、と言わざるを得ない光景を目にし、そのすべてが心の中に刻み込まれている。その年、私と老人は例年以上の釣果を上げ、私はやっと準組合員として登録されるに至った。



 10回目のシーズンを迎える頃、正組合員となった私の傍らに老人の姿はなかった。4年目を境に、老人は私に船の全権を譲り、自身は近海漁のための船を新調した。ゆくゆくはその権利も譲ってくれるらしい。一度、なぜそこまで面倒を見てくれるのかと聞いたことがある。曰く、お前は俺と女房の希望なんだ。俺には家業を継ぐ人間はいないからな、と言葉少なに語った。

その時はあまり気にしなかったが、後に仲間の漁師から、奥さんが出産時に亡くなったこと、懸命の看護もむなしく、間もなく長男も他界したことを聞かされた。あの時の老人は見ていられなかったよ、こぼす。だが、そんなことを微塵も感じさせない老人に対し、私も深く詮索することはしなかった。

 いつしか日常になった太平洋での操業を終え、いつも以上の釣果を自慢しようと帰港した矢先。老人が入院したことを聞かされた。水揚げを仲間に頼み、片付けもそこそこに病院へと直行する。真っ白に彩られた個室。白いカーテンが揺れる窓辺に活けられた時期外れのヒマワリが際立つ。訪れた私を見て、老人は素っ気なく何しに来た?と一言。

 いや。と言うのがやっとで、沈黙が包む。何とか強がって、殺しても死なないような人間が入院とは、どんな顔をしているのか気になりましてね、と返し無理に明るく振舞い、笑った。そんな私の心情を察してか、老人はとうとうと自分の仕事の尻拭いを他人に任せるとはどういう了見だ、水揚げまで責任を持て、と厳しく叱責した。その声に生気を感じる事が出来なかった。本能的に、もう老人と過ごせる時間は多くはないな、と悟り、その場で次の出港は一回見送る事にした。

が、この老人は腐っても鯛、私の考えを見透かしたように、お前の釣果は組合長から聞いている。今年に限れば、去年より成績が悪いだろ?だから、俺の事は気にせずに、さっさと漁の準備をして来い。穴を空けたら許さんぞ、と語気を強める。

 その頃には私も老人の気持ちを少しは汲み取れている。老人は最後まで老人だな、と覚悟を決める。言いようのない不安と無力感が押し寄せてくるが、いつもと同じように出港の準備をし、見舞いから二日後には漁場へと船を走らせていた。

 結果、帰港の頃には老人の通夜も葬儀も終わっていた。主のいなくなった老人の家。仏間に小さな祭壇と香炉。そして遺骨と遺影が置いてある。最後まで付き添った組合長曰く、最後まで私の身の振り方を案じていたようだった。これを託された、と手渡された多数の書類に目を通す。老人の持つ権利を、弁護士を通じて証書にしたもの、それを全て私へ譲渡する旨の書類。そして、私に充てられた封筒が一通。裏面には『伊禮 栄庫』と力強い署名が記されている。最後まで、人生を投げずに、責任を全うした力強さが、その書名から見て取れる。託された責任の重さを感じる、見事な署名だった。組合長に一人にしてもらえますか?とお願いし、仏間で老人と別れの酒を酌み交わす。


 思い出すのは過酷な現場での楽しいことばかりだ。今でも青二才、と呼ぶ声が聞こえてくる。真っ黒に焼けた顔で、煙草を吹かし、いたずらっぽく笑う顔が浮かぶ。老人が好きだった赤ラークに火をつけ、ともに吸う。封筒を開ける。中に入っている手紙に目を通す。


『俺には、学がない。手紙の作法はわからんが、人生で初めて手紙を書くことにする。これは俺の最初で最後のお前への感謝の言葉だ。心して見るように。
ずいぶん前のような気がするが、あの日お前が焚火の前にぼーっと立って俺の作業を見ていたときに、俺はなぜかこいつを一人前に育てねばならん、と天命を受けたんだ。思えば、お前に息子を見ていたのだろう。息子が大人になって目の前に現れた、と今でも信じている。知ってのとおり俺の息子は一年も生きられなかった。今でも小さな息子の亡骸を抱きしめた感触は手にずっと残っている。やっと妻と息子のもとに行けると思うと、少し心が安らぐよ。ただ、お前を残して先に逝かねばならないのは心残りだ。お前は息子が俺に与えてくれた最高の親孝行なんだと思う。俺はお前を本当の息子だと思って接してきた。時には厳しく当たった事もあったが、その度に成長するお前の姿をとても微笑ましく見ていたよ。老いぼれにはそれが何より嬉しく楽しいことだった。

お前が年間の漁獲量で一位を取った時は、自分が取った時より何倍も嬉しかったな。あの日は二人で朝まで飲み明かしたな。お前が俺のもとで修行させてくれてありがとうございます、と言った時には、寝たふりをしていたが、柄にもなく涙を流してしまったよ。今となってはいい思い出だ。


死に際に人生は意味のあるものだった、と確信させてくれたのはお前だ。そして、それに応えて最後までついてきたお前に感謝している。先の見えた人生の最後に、お前と共に見た夢は俺の人生を最高のものにしてくれた。だから、これからはお前のやりたいように生きろ。権利書はそのためにお前に譲る。漁師を続けるもよし、権利を売って別の人生を歩むもよし、お前の無限の可能性を試していけ。あの大海の荒れた海を乗りこなしてきたお前に、勝てない波などない。おもしろきこともなき世におもしろく、だ。お前ならやれる。強く生きろ。』


 もう、ところどころ、文字が滲んでしまっている。別れの席に相応しくない、と必死にこらえていたものが溢れてしまう。

『最後に。
とうとう結婚しなかったな。俺に遠慮していたのかもしれんが、もう3年も待たせている彼女がいるだろう。さっさとケジメを付けんか、青二才!お前は本当に仕事以外の事になると人が変わった様に優柔不断になるな。結婚して子供を持つまでは、俺はお前を一人前とは認めないからな。あの世で子供の報告待っているぞ。』


最後に老人らしく締めてくれて、私は少し笑った。外に出るときれいな星空が広がっている。先に外に出ていた組合長の横に座り、老人からの伝言を受け取る。

翌朝。


 私は一人出港した。傍らには山崎のシングルモルト12年。目指すは太平洋だ。目的地までは数時間。真っ青に広がる海に春の兆しを感じさせる南風。浮かぶ雲は白く輝く。太陽は活気を取り戻し、じりじりと肌を焼く。
そろそろか、と腰を上げ、老人の遺灰を取り出し、ウィスキーを開け海に捧げる。最後に交わす言葉はいらないな、と思い、どこまでも続く大海原へと遺灰を撒く。風に煽られたそれは、空高く舞い上がり、きらきらと太陽の光を反射し、やがて海の彼方へと消えていった。
 嵐の中心を抜けたが、波はまだまだ高い。これでは仕事にならない、と今日一日の休業が決まった。船室に入り先に休ませてもらう。
ベッドに横になり、天井を見上げ、考える。
 
 重いな  。


 これまで生きてきた人生は、決められた事をそつなくこなしていれば、結果が帰って来て、評価が上がる。それを繰り返し、組織の中で上に上がっていけた。それはそれで充実していたと、思い込んでいた。だが、それは間違いだった。確かに、死ぬほどの恐怖を味あわされたが、こんなに生きていることが愛おしくなる感覚は初めてだった。老人は幾度もこんな修羅場を潜り抜けてきたのだろう。その発言の一言一句が脳に刻み込まれている。

情けない  。

 自分の無力さを痛感し、海を舐めていたことを思い知らされる。悔しさと安堵感が入り混じる不思議な感覚のまま、気がつくと眠りに落ちていた。

ジンジンとした唇の痛みで目を覚ました。外に出ると空を覆い尽くしていた雲は消え、青く澄んだ空が広がっている。波もだいぶ落ち着いてきた。老人を探すと、船首で仰向けになり、空を眺めながら煙草の煙を燻らせていた。こちらの気配に気づくと、回収頼んだぞ、俺は寝る、と船室に入っていく。

 どうやら予想より早く波が収まったので、仕掛けを投入した後だったようだ。この日は久しぶりの釣果を得た。あの嵐を乗り越え、こうして操業で来ている事がとても嬉しく、ありがたいことに思えた。生きているという事を強烈に実感した。現場の人間はここまで命を懸けて、食卓へと命を繋げている。いつもより少ない仕掛けを回収し、海を眺めながらこの仕事を一生の仕事にしたい、と決心した。

この日で出港して11日。今日の成果でイカは150杯。ようやく折り返しだ。いつの間に起きていたのか、老人はとっておきだぞ、とにやりと笑い、お気に入りのタバコと共に、コップ一杯の泡盛を手渡してきた。お前の顔を見れば、何を考えているかなんぞお見通しだ、海に生きる覚悟を決めたんだろ?その祝い酒だ。今日だけは特別だ。味わって飲めよ、と言い、自分のコップを一気に飲み干す。

 あれだけ酒は厳禁だと言っていたくせに、と怪訝なまなざしを投げつけると、安心しろ、俺のは水だ、青二才。と笑う。老人に勧められるまま、泡盛に口をつける。切れた唇に染みて、少し痛かったが、独特の香りと、強めのアルコールが口の中に広がる。

 あぁ、久しぶりだな、と心地よい刺激に身をゆだねる。喉を駆け下り、胃に入ったアルコールが、一瞬の間をおいて五臓六腑に染みわたる。久しぶりの娯楽だった。たった一杯だったが、時間を掛けてゆっくりと味わう。色々な思いが胸に渦巻き、溢れだした感情が涙となって零れ落ちていく。

 とめどなく流れる涙は、これまでで最も純粋で、決意のこもったものになった。老人にこの仕事に誘ってくれた礼を言い、改めて、修行させてください、と頼む。老人は煙草の煙を大きく吐きだし、一瞬の間をあけて、死ぬ気でやれよ、と短く答える。その顔はとても照れくさそうに見えた。

 よし、と老人が声を上げ、じゃあこれから帰港するぞ、といたずらっぽい笑みを浮かべる。拍子抜けした私に、老人は嫌味っぽく、昨日甲板に水を被り過ぎたせいで、保冷用の氷がだいぶ溶けてしまった。海水を抜いて調節してみたが、もってあと三日だろう、これでは帰港するしかあるまい、と残念がる。が、目は笑っている。少しイラッと来たが、いかんせん酔いが回っていてはうまく頭も回転しない。すみませんでした、と一言だけ返し、船は一路西南へと針路を定め、海の神様へ泡盛を奉納したあと、時速五キロの航海を開始した。


 その間、先に帰る旨を仲間に伝える無線で、あの青二才が、と楽しそうに語る老人により、帰港後ヘタレという新たな汚名を着せられることになる。とにもかくにも、初めての航海は日程の割にはまずまず、と言う結果を残し、二日後の明け方に港へと帰港した。

 初めての航海は海と自然の怖さを存分に味わうことができるものとなった。しかし、慣れとは恐ろしいもので、陸に上がっても体が揺れている感じがする。陸酔いと言うそうだが、これがなかなかに気持ちが悪い。老人は平然と宴会を始めている。曰く、今日で酒を存分に飲んでおけ、三日後に出港するぞ、だそうで。ビールを二本飲み干し、泡盛をロックで一杯飲んだ頃、激しい眠気に襲われた私は、そのまま眠りについていた。
 二人分のホットコーヒーを淹れていると、老人も船室から出てくる。淹れ立てのコーヒーと煙草を朝食代わりにし、仕掛けの準備へと移る。老人が突然、今日は10本だけにしておけ、後に時化るぞ。と言ってくる。ふと海を見ると、静かに水を湛えたプールのように波ひとつもない水面が広がっている。そういえば、明け方から船が全く揺れていなかったことを思い出す。

 なぜです?と問いかける。昔の人は良く言ったものだな。これが嵐の前の静けさと言うやつだ。南西の空を見てみな。夜が明けたばかりなのに、あそこだけ空の色が暗く淀んでいるだろう。そして今の時期は大陸から強烈な西風が吹く。遅くても今日の夜にはあの低気圧が移動してくる。大荒れになるぞ。いつもの冗談を言っている顔ではない。目つきが職人のそれになっている。分かりましたと応え、作業に移る。

 いつもの3分の1の仕事だ。やはり昼過ぎには回収も終わってしまう。が、作業中から嫌な感じがまとわりついていた。昨日までは好調だった漁獲がこの日に限ってまったくイカが上がらない。それどころか、あまりの多さに辟易していたムラサキイカすら上がってこない。海の中でも異変が起きている。これから来る嵐に備え、どこかへ避難してしまったようだ。その間も海は不気味な静けさが漂っている。

 時間がたつにつれ、背筋に流れる汗が、冷たくなっていく。本能が危険を察知しているようだ。嵐への対策をあらかた終わらせても、海は静かなままだった。朝方遠くに見えていた雲の塊は、やはりこちらへ向かってきているようだ。無線からは最大風速18メートルの嵐で、波も8メートルに達する見込み、と連絡があったが、この静けさを見ると、にわかには信じがたい。嵐が来るまでは、とこの日出港してから初めてエンジンを切る。こいつも少しは休ませないとな、と老人は笑う。

 風の音も、波の音も、まったくしない無音の世界。時間さえ止まってしまったような錯覚に陥る。心臓の鼓動がやけに体に響く。日が高いうちに休めるのは久しぶりだった。やる事もないので、試しに、と釣竿を垂らしてみる。が、もちろん反応は無い。プールのような海を眺めながら、見渡す限り、何も見えないその光景に、地球は本当に大きいな、と感じる。気のせいか水平線は丸みを帯びているようにも見える。

 そんなことを考えていると船のすぐそばの水面が波立ち、パシャッという音とともに、水面に背鰭が現れる。初めて見る野生のイルカだった。おそらく、オキゴンドウと呼ばれる大きめのイルカだ。物珍しいのか、船に興味を示し、着かず離れずの距離でこちらの様子を伺っている。垂らしていた釣竿を引き上げ、水面を見ていると、次から次へとイルカが姿を見せる。おそらく40頭ほどの群れだった。群れの長だと思われる、左目と背鰭に傷を負ったイルカと目が合う。しばらくして、害はないと判断したのか、船の周りで遊びだした。私は気が付くと海へと飛び込んでいた。

 なんだか誘われたような気がした。目を開くも、海水で視界はぼやけたまま。一度水面に上がり、大きく息を吸う。勢いよく頭から潜り、2回大きく手をかく。目を開けても何も見えないな、と目を閉じ、海に身を任せる。耳にはイルカたちが発するキュイ、キュイ、と言う声が響く。水深は1000メートルをゆうに超えている。この海域、水深では何が起きてもおかしくない。が、不思議と恐怖は感じなかった。心地のいい子守唄を聞いているような感じがした。体中の緊張を少しずつ解き放っていく。

 肌と海の境界線が曖昧になる。イルカたちも、不思議な格好をした得体のしれない生き物に興味津々で近づいてくる。息を止めているのも忘れて、イルカたちと戯れる。体が海に溶けていく。重力から解放された自由な空間がそこにはあった。時間にして一分ほどだったと思うが、永遠に続くかと思えるほど長く感じた。幾度か潜水を続け、最後に顔を出したのは20分ほどした頃か。飽きたのか、イルカたちは尾ひれを高く上げ紺碧の海へと潜っていった。過酷な環境の中、究極の癒しをもらう事が出来た。


 束の間の休息を終えると、老人の予告どおり、海は大きなうねりを伴い、激しく波打つようになってきた。エンジンを再点火し、波に合わせて操船しながら、ひたすら嵐が過ぎ去るのを待つことになる。時はすでに夕闇の時刻に差し掛かっている。周囲を照らすライトなどは装備していない。仮にあったとしてもこの雨では使い物にならなかっただろう。あっという間に日は沈み、宵闇に包まれていく。

 視界は悪く、波の状況さえ見えない状態だが、船の傾きがその波の大きさを伝えてくれる。船の隅々まで神経を集中し、波に対して船が直角になるように舵を切る。これだけの大波を横からくらっては、船は水平を保てず、簡単にひっくりかえる。しかも、波の姿は見えていない。判断を間違えると、一気に事態は最悪の展開になってしまう。

 恐怖に飲まれかけた私に、老人は落ち着いた様子で語る。ここまで荒れてしまっては、思考は意味をなさないぞ。頭の理屈は捨てて、感覚を研ぎ澄ませろ。感じたままに操船しろ。それが正解だ。その刹那。大波を乗り切り、波を下っていたはずの船がドン、と言う音と共に、真下から突き上げられ、急激に左へと傾く。たった数秒だが、船は確実に水平を失っていた。船室の壁に体が叩きつけられる。舵にかけた右手だけは離さずに、何とかコントロールを試みる。返す波で今度は右の壁へと吹き飛ばされる。

 舵が効かない。

意図する方とは逆に船が流れてしまう。私は見る見るうちに青ざめた。これが三角波の怖さか。と改めて海の怖さを実感する。

 これまでどんな大波でも、一定のリズムで同じ方向から来ていた。だが、今回の波はそれとはまったく違う。船尾が持ち上げられたかと思うと、次は右舷前方が持ち上がる。水面に次々と波の山が表れ、船を弄ぶ。予測が効かない。船は水面に浮かぶ枯葉のように翻弄され、ミシミシと木をねじ切るような不気味な音を響かせている。

 とたんに『死』と言う単語が頭を埋め尽くす。次第に筋肉の緊張は高まり、息は浅く早くなり、体中に経験したことのない気味の悪い汗が噴き出す。膝は上半身を支える事で精いっぱいで、この揺れの中では踏ん張る事すらできない程震えている。心臓は尋常ではない速さで鼓動し、喉の奥は締め付けられ、口はカラカラに乾いている。思考は完全に機能を果たさなくなっていた。

 今まで出来ていた事が一つ一つ出来なくなっていく。恐怖や絶望、無力感。ありとあらゆる負の感情に飲み込まれてゆく。視界は狭まり、舵を持つ右腕は見当違いの方向へ舵を切っている。物凄い風と波の轟音が響いていたはずだが、私の耳は聴くことをやめていた。どこか、映画のワンシーンを無音で見ている感覚に陥り、完全にパニックを起こしてしまった。

 船は自らの持つ復元力で何とか航行を続けているが、操る人間が平常心を保っていなければ、沈没は時間の問題だ。船の力だけで、何とか次の大波を乗り越えたが、私は切ってはいけない方向へ舵を切ってしまう。老人が鬼の形相でこちらを見て、叫んでいる。が、口が動くだけで声は聞こえない。全てがモノクロのスローモーションで再生されていく。迫りくる大波に怖気づき逃げるように波に背を向けてしまった。船は船尾が持ち上げられ、船首がどんどん水中へ潜って行ってしまう。もう操船どころではない。甲板は海水で溢れ、海と船の境が分からなくなるほど、波を被っている。この波を何とか乗り切ってくれ、と願うしかない。自然の驚異をまざまざと見せつけられる。

 一生分の運を使い果たしたのか、何とか船は水平を維持し、奇跡的に沈まなかった。
 
 後に老人から、あれは海の神様の洗礼だ。沈まなかったのはお前にまだまだ生きろ、と言う事だったんだと思う、あの状況で沈まない船を俺は聞いたことがない、とまで言われてしまった。


 もう舵すら握れなくなってしまった私に、波で吹き飛ばされるのとは違う方向から、強い衝撃が飛んできた。船室の外に投げ出され、唇からは生暖かい血がしたたり落ちている。見上げた操船席には老人が陣取り、懸命に船を安定させようとしている。ぼーっとしていた頭が、つい数秒前の記憶をリプレイする。何をどうしていいかわからなくなった私に、老人が渾身の左フックを浴びせていた。

 切れた唇の痛みが、私を正気に戻してくれた。一部始終を思い出し、はっと我に返る。それに気づいたのかはわからないが、老人は舵を操りながら、少しは頭が冷えたか?青二才。と言って高らかに笑う。こんな海こそベテランの真骨頂だ、と言わんばかりに、次々に波を乗りこなしていく。先ほどまでは、大きく左右に振られ、悲鳴を上げていた船が、今ではビッグウェーブをとらえたサーファーのように、気持ち良さそうに波の合間を縫って航行している。

 ようやく落ち着きを取り戻した私の世界に、音が還ってくる。気が付けば体の震えも止まっている。そこからは老人が7時間にわたり嵐と格闘を続けた。暗黒の雲の隙間にオリオン座を確認するころ、ようやく長い戦いに終止符が打たれた。低気圧の中心を抜けたのだ。

 いいか、色白よ。お前は最初の波に怖気づき、歯車が一つずれた。その後修正を試みたが、これが見当違いで、また歯車がずれる。一度ずれた歯車は簡単には戻せない。海の上で、一つミスをするという事は、そのまま死に直結するという事だ。身に染みて分かっただろう。肝心なのは死に飲まれぬ事だよ、海と俺たちの命のやり取りなんだ。ここが際の際、という時に、どれだけ冷静で居られるか、が死線に活路を見出すことになるんだ。と嵐の後老人は諭してくれた。

 
 殴ったことはお前を正気に戻すのに必要だったが、悪かった、と謝罪も受けた。激しい安堵感で、立つことすらままならなかった私は、頷くだけの返事を返し、気づけば涙が頬を伝っていた。