嵐の中心を抜けたが、波はまだまだ高い。これでは仕事にならない、と今日一日の休業が決まった。船室に入り先に休ませてもらう。
ベッドに横になり、天井を見上げ、考える。
 
 重いな  。


 これまで生きてきた人生は、決められた事をそつなくこなしていれば、結果が帰って来て、評価が上がる。それを繰り返し、組織の中で上に上がっていけた。それはそれで充実していたと、思い込んでいた。だが、それは間違いだった。確かに、死ぬほどの恐怖を味あわされたが、こんなに生きていることが愛おしくなる感覚は初めてだった。老人は幾度もこんな修羅場を潜り抜けてきたのだろう。その発言の一言一句が脳に刻み込まれている。

情けない  。

 自分の無力さを痛感し、海を舐めていたことを思い知らされる。悔しさと安堵感が入り混じる不思議な感覚のまま、気がつくと眠りに落ちていた。

ジンジンとした唇の痛みで目を覚ました。外に出ると空を覆い尽くしていた雲は消え、青く澄んだ空が広がっている。波もだいぶ落ち着いてきた。老人を探すと、船首で仰向けになり、空を眺めながら煙草の煙を燻らせていた。こちらの気配に気づくと、回収頼んだぞ、俺は寝る、と船室に入っていく。

 どうやら予想より早く波が収まったので、仕掛けを投入した後だったようだ。この日は久しぶりの釣果を得た。あの嵐を乗り越え、こうして操業で来ている事がとても嬉しく、ありがたいことに思えた。生きているという事を強烈に実感した。現場の人間はここまで命を懸けて、食卓へと命を繋げている。いつもより少ない仕掛けを回収し、海を眺めながらこの仕事を一生の仕事にしたい、と決心した。

この日で出港して11日。今日の成果でイカは150杯。ようやく折り返しだ。いつの間に起きていたのか、老人はとっておきだぞ、とにやりと笑い、お気に入りのタバコと共に、コップ一杯の泡盛を手渡してきた。お前の顔を見れば、何を考えているかなんぞお見通しだ、海に生きる覚悟を決めたんだろ?その祝い酒だ。今日だけは特別だ。味わって飲めよ、と言い、自分のコップを一気に飲み干す。

 あれだけ酒は厳禁だと言っていたくせに、と怪訝なまなざしを投げつけると、安心しろ、俺のは水だ、青二才。と笑う。老人に勧められるまま、泡盛に口をつける。切れた唇に染みて、少し痛かったが、独特の香りと、強めのアルコールが口の中に広がる。

 あぁ、久しぶりだな、と心地よい刺激に身をゆだねる。喉を駆け下り、胃に入ったアルコールが、一瞬の間をおいて五臓六腑に染みわたる。久しぶりの娯楽だった。たった一杯だったが、時間を掛けてゆっくりと味わう。色々な思いが胸に渦巻き、溢れだした感情が涙となって零れ落ちていく。

 とめどなく流れる涙は、これまでで最も純粋で、決意のこもったものになった。老人にこの仕事に誘ってくれた礼を言い、改めて、修行させてください、と頼む。老人は煙草の煙を大きく吐きだし、一瞬の間をあけて、死ぬ気でやれよ、と短く答える。その顔はとても照れくさそうに見えた。

 よし、と老人が声を上げ、じゃあこれから帰港するぞ、といたずらっぽい笑みを浮かべる。拍子抜けした私に、老人は嫌味っぽく、昨日甲板に水を被り過ぎたせいで、保冷用の氷がだいぶ溶けてしまった。海水を抜いて調節してみたが、もってあと三日だろう、これでは帰港するしかあるまい、と残念がる。が、目は笑っている。少しイラッと来たが、いかんせん酔いが回っていてはうまく頭も回転しない。すみませんでした、と一言だけ返し、船は一路西南へと針路を定め、海の神様へ泡盛を奉納したあと、時速五キロの航海を開始した。


 その間、先に帰る旨を仲間に伝える無線で、あの青二才が、と楽しそうに語る老人により、帰港後ヘタレという新たな汚名を着せられることになる。とにもかくにも、初めての航海は日程の割にはまずまず、と言う結果を残し、二日後の明け方に港へと帰港した。

 初めての航海は海と自然の怖さを存分に味わうことができるものとなった。しかし、慣れとは恐ろしいもので、陸に上がっても体が揺れている感じがする。陸酔いと言うそうだが、これがなかなかに気持ちが悪い。老人は平然と宴会を始めている。曰く、今日で酒を存分に飲んでおけ、三日後に出港するぞ、だそうで。ビールを二本飲み干し、泡盛をロックで一杯飲んだ頃、激しい眠気に襲われた私は、そのまま眠りについていた。