路上カメラマン身の周り切撮り@サンパウロ

路上カメラマン身の周り切撮り@サンパウロ

危ないと言われる場所に住み、
よく行けるねと言われる場所に行く。
ブラジルに来て早16年
思い返せば何も思い出せない今日この頃・・・。

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学校再構成反対に立ちあがった教師、生徒そしてその父兄は抗議デモを行い、学校を占拠。政府は学校への水の共配を断ち、自主的撤退を呼びかけた。
今現在およそ200校が占拠され、それに参加する人数は日々数を増している。

そんな抗議運動の一つとして、サンパウロ市の主要道路を生徒たちは通行止めにした。

(以下 9 de julho大通り―12月1日)












夕方の渋滞に合わせ、学校のイスを並べて大道りの両方向を止める。道路にはバスや乗用車が長蛇の列を作った。バスターミナルからバスが消え、バスを諦め歩いて移動する人たちが道に溢れる。2時間以上による通行止めはサンパウロの中心部で行われたため、その影響はサンパウロ全域に広がり、完全に街を麻痺させた。

 


時間が立つと共に軍警の数も増え、特殊部隊も現れた。



「手荒な真似をするつもりはない。い続けたいなら夜中いてもらっても構わない。ただこの運動を仕切ってる人と話がしたい」

と特殊部隊の指揮者はメディアのインタビューで答えていた。



そのコメントの30分後…



21時半。



交通止めから約2時間半後…彼らは動き出す。































未成年の学生2人と偶然通りかかった男女の計4人が連行され、怪我人が数名出た。

サンパウロ州には数多くの公立学校が存在するが、サンパウロでは『公立校卒』というのは多くの場合あまりいい印象を持たれない。酷い環境のなか低レベルの授業を受け何も身についていないのに卒業したと、想像される。

壊れかけ落書きだらけの椅子を生徒たちが所せましと並べ、生徒が多く過ぎ進まない授業、黒板用の大きな定規などはもちろんなく、質が悪いチョークで傷だらけの黒板に文字を書く。質のせいかその文字は薄く読むのが困難だ。校舎にはひびが入り、長年落とされてない汚れが黄ばんだ壁に独特な模様を作っている。床のコンクリートはところどころ剥がれて穴ができ、運動場でボールを転がせば穴の影響でボールが勝手に方向転換をしたり、跳ねたりする。
教科書はない。普及もされないし、生徒たちも買うことができないからだ。多くの生徒は大学ノート一冊とボールペン一本だけを持ち登校する。下校途中近くの私立学校の生徒を強盗する子も存在する。学校内で麻薬の売買が行われるのも、生徒同士のおやつの盗りあいも、殴り合いの喧嘩も、その中では珍しくない光景だ。

サンパウロの学校では私立・公立関係なく「幼稚園~高等」「幼稚園~初等」「初等~高等」と多くの場合一貫性で、日本のように小学校だけが入った学校という形は非常に珍しい。
ブラジルの学校制度は初等1~6年生、中等7~9年生、高等1~3年生、その後大学へと進級する。

授業内容は日本のものとは雲泥の差で、私が日本から編入した私立校は5年生で掛け算九九をしていた。ブラジルで初等教育でも留年制度があり、幼稚園でも落ち着きがないなど普段の行いが好ましくないと先生が判断した場合は進級できない。がしかし公立校はそうはならない。点数を与え進級し卒業させてしまう。前働いていた会社の掃除のおばちゃんは公立の小学校を卒業(日本で言う中卒)したが、読み書きが殆どできない人だった。

それらが理由で家計に余裕がない家庭でも何とか子供を私立へ入学させる。公立を出た人でも後に国立大学を卒業し、大手企業へ就職する人もいるがその例はとても少なく、多くの場合は職につくのも一苦労する方が多いのではないだろうか。



サンパウロ州の公立校を Geraldo Alckmin(ジェラルド・アルキミン)サンパウロ州知事が学校再構成案を出した。年齢差による生徒間の摩擦や悪影響を減少させ、同年代が集う事による教育戦略の向上を目的にしている。
来年から小~高校まで入っている学校を、日本のように小中高3つに別け、各校1課程のみにするという取り組みだ。その影響で150校以上の学校が閉鎖され、今通っている学校の1,5km以内の学校への転校を余儀なくされるなど、約34万人の生徒へ影響があるとみているが詳しい情報は未だ発表されていない。

サンパウロでは親が子を送り迎えをするのが一般的でその背景には強盗や誘拐など犯罪や事故などがある。地域ごとに学校は指定されておらず、各家庭で子供の学び場を決め、ボディー℉ガード、運転手、お手伝いさん、スクールバス(有料)、親自らなどが車を出したり歩いたりと、それぞれの方法でほぼ必ず大人が付き添う。公立に至っては送り迎えをする際ほぼ100%徒歩だ。

日本人としては各校1課程が当たり前なので何も思わないかもしれないが、国が違えば状況も違う。学校同士の距離は大人の足で歩いて約20~30分。学校や教師不足、超満員の教室は前から指摘されている。母子家庭、子沢山、朝から晩まで仕事に明け暮れる親。この状態で学校の再構成を実行すると何が起こるだろうか。


この学校再構成の取り組みに対し公立の教師、生徒、そしてその父兄が立ち上がった。

(②に続く)

昔、お金と言うものが存在しなかった時代の人々は
自分と他人とでお互いに物を交換し合う、
「物々交換」という形で欲しいものや必要な物を手に入れていた。
がしがし人によってその物に対する価値観が異なるため
お互いが納得のいく形の物々交換は困難だった。

その物々交換を争いや不満なく成立させるために「金」という新しい「道具」が生まれ
「金」たるものには統一された価値が課された。
そして「物」には価値を表す「値段」というものがつけられた。

「値段」にもとづき人々は「金」という「道具」を渡しての物々交換が行われるようになる。
それが今で言う「買う」という行為である。

物々交換を難なく行われるためにつくられた「金」は
手元にあればあるほど高価なもの、つまり「値段の高いもの」と交換できるため
人々はその道具に惹かれ憑りつかれていった。



金が作られた当時が現代と大きく異なるのは、
「物」だけでなく、「行動」いわゆる「サービス」というものにも
その「物々交換」が適応されている事だ。

そして何よりも異なることは「金」を提供している人が
「物」や「サービス」を提供している人よりも上の立場にいると思っている事。


両方の提供しているモノの価値が合うがゆえに「買う」という行為を行っているのに、
「買って頂いてる
「買ってやってる
とは理にかなわない。

値段が売り物に対し、高過ぎると思うのであれば、買わない
金額が売り物に対し、低すぎると思うのであれば、売らない


働くという行為もそうだ。
「給料を頂いているから
「給料を払っているから

会社が支払う給料に対し、労働者から得る労力が劣っていると思うのであれば、解雇
労働者が提供している労力に対し、会社から得る給料が劣っているのであれば、辞職



客は店を選ぶ権利があるが、店は客を選ぶ権利がある。

会社は職員を選ぶ権利があるが、職員も会社を選ぶ権利がある。



店・会社職員店・会社



なぜお互いが同じ目線にいるはずなのにそこで上下が生まれるのであろうか。


何の変哲もないコンビニでの買い物でも、
レストランの食事でも、
企業同士の交渉でも、
タクシーでも、
いつでも、どこででも…。

お金が動く場面は生活の中で溢れている。

がしかしそれは誰が「神」でどっちが「上」かを示すものでは決してない。



「誰のおかげで金をもらえてると思ってんだ!」

「たかが店員のクセに、それで金もらってんだろ?」

「納得がいかなくてもそれをしないと生活ができない…」



不平不満、横暴な態度…

考えも行動も、何もかもがバランスを取れていない。

「他にも選択があったのに自分(の)に払ってくれて、有難い」
とお金を得る側の多くは考えるが、それと同時に

「他にも選択があったのに、この値段で売ってくれて、有難い」
とお金を渡す側は考るべきである。

本来であれば互いに調整し、互いに感謝するもののはずだ。


人間が作った売買のシステムに人間自身がバランスを崩されている。


この世は間違っている。

そしてその間違いが「そういうもの」や「しょうがない」という言葉で終わらさせられてる事に
ある種の恐怖を感じざるを得ない。






ワールドカップを2年後に迎えたブラジルサンパウロ市内のスラムにて火災発生。
そして住民ら自らが家を建て、水道や電気などを造り直し生活していた矢先の事、
最初の火災発生より一年後の2014年9月7日、再度炎がこのスラムを襲う。
ワールドカップへ向けての街づくり計画の一つであったモノレールは開通したらこのスラムの前を通過する為、
この事件には「黒い事情」が存在しているのではないかと考えている人が少なくない。

ワールドカップが終わった今、未だモノレールの工事は続いている。


名前年齢不明-被害に遭ったスラム、Favela do Piolhoにて。




人生を語るその一本に

醜いものなど存在するわけがなく

時の魅力は溢れ出す



誰かペルード(犬の名前)をもらってくれる善い人を知らないかい。
こいつは息子のようなものさ。でもだからこそ手放さなければならない。
こいつを拾った時こいつは虐待されて酷ぇ状態だったよ。
俺は飯すらろくに食わせることができねぇ。
それにこいつがいると他の犬を助けることができねぇしな。
もう十分苦しんだよなぁ。これからは幸せにならないとなぁ。
なぁペルード…。


ファビアーノ
路上歴20年。虐待を受けたり捨てられた犬を保護し新しい家族を与える活動を個人で行っている。収入のほとんどが犬の薬やご飯代などに充てられる。



最近は仕事の量がぐっと減り、空いてる時間は相変わらずカメラ片手にぷらぷらと街中を散歩している。
サンパウロに住む日本人や日系ブラジル人は私が住むサンパウロ市中心部、Centro(セントロ/ダウンタウン)を汚いや危ないと言い、用事がない限りあまり近づこうとしないが私にはサンパウロの中心部というだけあってそこを知らずにしてサンパウロを知ることはできないと思っている。
生々しい現実を顔面に殴り、塗り付けるセントロに触れると自然と色んな人と出会い会話をし、人としての生き様やあるべき姿などを考えざるを得なくなる。

伸び放題の髪は束になり顔を覆い隠し、その隙間から見える肌は何層にも汚れが重なり厚い。
その奥から覗く眼が映るもの全てを吸い込むかのようにじっと光っている。
拾ったであろうジーンズを二重も三重にも履き、夏であろうと決して脱がない厚手の上着。
ボランティアが配るリサイクルで作られた灰色の毛布を常にマントのように肩から羽織る。
暑かろうが、寒かろうが、雨が降ろうが常に自分の持つすべての服をすべて身に着けたまま生活している。

そんな彼ら、いわゆる浮浪者をブラジルへ渡り初めて見た幼い私は彼らの存在が理解できなかった。
全身真っ黒でふらふらをさまよい、道の端でじっとうずくまる彼ら。
ゴミが動いたかと思えば人だったなんてことは日常茶飯事だ。

一緒に歩いていた母へ訪ねた、彼らはなぜこうなったのか…。

母は答えた、

「彼らが何で道に住んどるかは彼らに聞かんと分からんよ。
 やけどね、理解してほしいのは人それぞれ事情があってこうなとって、ナル(私)と同じ人間やって事。
 ナルが今持っとる家とか食べ物とか服とかは持っとって当たり前やない事。
 その一つ一つには価値があって、感謝せんといかんとよ。
 今あるものの価値を見出せんと幸せが何かも分からんけんね。
 彼らをよーく見てみ。外見は違うけど私たちと同じ人間やけんね。
 彼らは大切なことを誰よりもナルに教えてくれるけんね。
 それを忘れたらいかんよ。」

何を言ってるのかさっぱり理解できなかった。
ただ理解できたのは彼らも人間であるという事、今あるものはあって当たり前ではないという事。そして彼らは色んな事を教えてくれるという事。

その言葉は常に私の頭で反響し自分というものを見つめさせる。
成長し歳を重ねるたびに、より一層自分に問いかける。


欲があるのは悪い事だとは思わない。
がしかし今あるものに感謝できないのは問題だと思う。
金持ちだって貧乏だってなんだっていいじゃないか。
社会的階級や役職、肩書が何であろうと中身が人としてどうか、が問題なのではないだろうか。
あなたが本当に困った時、金をなくし、役をなくし、名前をなくした時、誰がそばに残り誰が手を指しのばすのだろうか。
何も持ってない負け組の奴が騒いでるだけと言う人もいる。
そうかもしれない。
そしてあなたにとって非現実的な世界のどこかで起こっている状況と比べる必要はない。
でも思い返してほしい。あなたが今いる状況に至るまでの事を。
考えて欲しい。今あなたにあるものの価値を。


ただ少し、ほんの少しでいいから自我を捨て自分を見つめて欲しい。
物に溢れ、画面越しに人とつながり、感覚が麻痺している今の時代だからこそ…。
人や自分の事を考えたり言う時間があるだけ

お前は幸せなんだよ。

頼むからそこに気付いてくれ。