自我による失明 | 路上カメラマン身の周り切撮り@サンパウロ

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危ないと言われる場所に住み、
よく行けるねと言われる場所に行く。
ブラジルに来て早16年
思い返せば何も思い出せない今日この頃・・・。

昔、お金と言うものが存在しなかった時代の人々は
自分と他人とでお互いに物を交換し合う、
「物々交換」という形で欲しいものや必要な物を手に入れていた。
がしがし人によってその物に対する価値観が異なるため
お互いが納得のいく形の物々交換は困難だった。

その物々交換を争いや不満なく成立させるために「金」という新しい「道具」が生まれ
「金」たるものには統一された価値が課された。
そして「物」には価値を表す「値段」というものがつけられた。

「値段」にもとづき人々は「金」という「道具」を渡しての物々交換が行われるようになる。
それが今で言う「買う」という行為である。

物々交換を難なく行われるためにつくられた「金」は
手元にあればあるほど高価なもの、つまり「値段の高いもの」と交換できるため
人々はその道具に惹かれ憑りつかれていった。



金が作られた当時が現代と大きく異なるのは、
「物」だけでなく、「行動」いわゆる「サービス」というものにも
その「物々交換」が適応されている事だ。

そして何よりも異なることは「金」を提供している人が
「物」や「サービス」を提供している人よりも上の立場にいると思っている事。


両方の提供しているモノの価値が合うがゆえに「買う」という行為を行っているのに、
「買って頂いてる
「買ってやってる
とは理にかなわない。

値段が売り物に対し、高過ぎると思うのであれば、買わない
金額が売り物に対し、低すぎると思うのであれば、売らない


働くという行為もそうだ。
「給料を頂いているから
「給料を払っているから

会社が支払う給料に対し、労働者から得る労力が劣っていると思うのであれば、解雇
労働者が提供している労力に対し、会社から得る給料が劣っているのであれば、辞職



客は店を選ぶ権利があるが、店は客を選ぶ権利がある。

会社は職員を選ぶ権利があるが、職員も会社を選ぶ権利がある。



店・会社職員店・会社



なぜお互いが同じ目線にいるはずなのにそこで上下が生まれるのであろうか。


何の変哲もないコンビニでの買い物でも、
レストランの食事でも、
企業同士の交渉でも、
タクシーでも、
いつでも、どこででも…。

お金が動く場面は生活の中で溢れている。

がしかしそれは誰が「神」でどっちが「上」かを示すものでは決してない。



「誰のおかげで金をもらえてると思ってんだ!」

「たかが店員のクセに、それで金もらってんだろ?」

「納得がいかなくてもそれをしないと生活ができない…」



不平不満、横暴な態度…

考えも行動も、何もかもがバランスを取れていない。

「他にも選択があったのに自分(の)に払ってくれて、有難い」
とお金を得る側の多くは考えるが、それと同時に

「他にも選択があったのに、この値段で売ってくれて、有難い」
とお金を渡す側は考るべきである。

本来であれば互いに調整し、互いに感謝するもののはずだ。


人間が作った売買のシステムに人間自身がバランスを崩されている。


この世は間違っている。

そしてその間違いが「そういうもの」や「しょうがない」という言葉で終わらさせられてる事に
ある種の恐怖を感じざるを得ない。