エドワード・クォン、第5章「回って回って回って」と第6章「キムチシェフ」は、まとめちゃいます。
世界では、韓国人というだけで偏見を持たれることも。
サンフランシスコでの出来事。
料理がおいしかったので、作ったシェフを呼んでほしいと言われた時のことだ。
お客さんの前に出ると、
「お前じゃなくて、シェフ」
「わたしがシェフです」
お客さんはあきれたという風に笑って、
「チャイニーズ?」
「違います」
「ジャパニーズ?」
「違います」
「シンガポーリアン?」
「違います。コリアンです」
お客さんはいぶかしげな表情を浮かべ、言い放った。
「コリアン?コリアンのシェフもいるのか?」
差別的な待遇は、お客様からだけでなく、同僚からも受ける。
それでも、上司に恵まれたおかげで、末端のシェフからたった2年で調理課長に。普通は10年かかるものだ。
渡米から3年がたち、帰国を決めた。
調理長にまでなってなぜと、妻にも周囲にも反対された。
アメリカで学んだたくさんのことを後輩たちに伝えたかった。
韓国の料理文化を世界水準にレベルアップさせるために少しでも寄与したいという思いがあった。
帰国し、ソウルのWホテルへ。
ここでも苦戦することとなった。
「年齢」が最も大きな問題だった。
当時、34歳。
副総料理長という職につくには、若すぎた。
韓国では、依然として、能力やリーダーシップよりも、年齢が重視された。
ともに働いてくれる料理長を探すのでさえ、一苦労。
以前の後輩の下で働くのは嫌だ、ということだ。
1年は耐えたが、再び海外へ。。
次の職場はシェラトン天津ホテル。
中国での1年間、休みは上海や青島など、各地の食紀行に費やした。
中国の食文化の多様性を知るためだ。
そして、中東、フェアモント ドバイへ。
そこでも、「キムチシェフ」と、陰口をたたかれた。
違う文化圏、違う国の料理をするということは、何よりも彼らの宗教、文化、食性、食材、歴史を知るということだ。
わたしはキムチシェフだ。わたしは決して自分から西洋料理の専門家とは言わない。生涯学ぶつもりだし、死ぬ日までたぶんわたしは彼らの国の料理を100%理解することはできないだろう。
ドバイに来て1年余りで、ロンドンのヘッドハンターから、バージュ・アル・アラブへの誘いを受けた。
全室スイートの最高級ホテルだ。
ソウルから渡米する際に推薦してくれたかつての上司が、またもや力になってくれた。
「エドワードのように世界的な感覚を持ちながら、レベルの高いレシピを考案し、東洋の食文化にも詳しい人はなかなかいない」と。
バージュ・アル・アラブに移って一番うれしかったのは、韓国料理を提供できるようになったことだ。もともとは韓国料理はメニューになかったが、わたしの移籍にあわせて、入れてもらったのだ。

