『聖徳太子』
第6回
聖徳太子の虚偽
● 誕生物語は作り話である
生まれながらによくものを言い聖智があった。10人の訴えを聞いてうまく裁いた。
聖徳太子の名前については、異例の数の多さで列挙するのも意味がない。「聖徳太子は偉かった」派の人たちでさえ、真偽を問うのもバカバカしく思うだろう。
逆に『日本書紀』が創作したものであることを露呈していて、『日本書紀』の信ぴょう性を損なっている。
● 推古天皇の摂政・皇太子にならなかった
聖徳太子の頃は「摂政」と言う職位はなく、平安時代になってからである。
「録摂政」は「まつりごとふさねつかさどる」という動詞である。
また、天皇制・皇太子制は後の天武持統天皇の時代の成立である。
誰でも疑問を持つのは、既に572年(敏達元年)に蘇我馬子が大臣になっている。老練で深遠な権力をもった馬子の前で青ちょろい彼に何が出来ただろう。
● 仏教興隆の詔を発したのは推古天皇であり、蘇我馬子が仏教の興隆をはかった
ここには、「594年(推古二年)、推古天皇が皇太子と蘇我大臣天皇に詔して(命令を直接下達する)行った」と書かれている。聖徳太子が具体的にどのように行動したかは書かれていない。
これにより仏法僧の三宝を興隆させ、氏寺の建立が盛んになったといわれている。その中心の寺院は、蘇我馬子の建てた飛鳥寺であり、仏教の興隆に貢献したのは聖徳太子よりも大臣 蘇我馬子である。この文章からは、聖徳太子が仏教を興隆したという賛美は生まれてこない。
『日本書紀』が聖徳太子持ち上げのため、皇太子を挿入したのだろう。
● 冠位十二階 は聖徳太子が制定したものではない
「冠位十二階」の段では、聖徳太子(皇太子)の名は一切出てこない。当然、天皇が命じて制作し発表したことになる。
『隋書』にも「冠位十二階」のことが書かれているが、むろん聖徳太子の名前などない。
聖徳太子と「冠位十二階」を結びつける史料は一切なく、推測の礼賛に過ぎない。
「冠位十二階」制定の実質的主体は聖徳太子ではなく、大陸文化を身に着けた渡来人を配下に持った蘇我馬子であった。馬子は冠位を授与されていない。それは、馬子が授与する権力的立場にあったことを意味している。
● 憲法十七条 は、後からの『日本書紀』の捏造である
『日本書紀』にしか「憲法十七条」の記載が無いとうのも不自然だ。 『隋書』倭国伝には「冠位十二階」については書かれているが、「憲法十七条」についてはなにも書かれていない。
「憲法十七条」の第十二条にある「国司」というのは、大化改新以降701年の大宝律令で定められたという後世の概念の官名である。
「憲法十七条」は『日本書紀』のなかの文章と酷似していて、推古期の文章とは思われない。
「憲法十七条」には多くの中国の古典が引用され、当時の中国の思想と政治体制を熟知していなければ書けない内容のものである。聖徳太子がいくら天才でも、「憲法十七条」を書くのは不可能である。当時、遣隋使の隋帝への国書作成も、百済人や渡来人にすべて依存していた。また、これを官人たちに示したとしても、日常的に文字を使用していなかったり、儒教思想や道徳概念を習得していなかった彼らには全く理解できなかったことだろう。そんなレベルの国で、聖徳太子だけが傑出して憲法を作るなど絵空物語である。
また年代資料では、603年(推古11年)に冠位十二階、604年(推古12年)に「憲法十七条」、そして605年(推古13年)に遠く斑鳩に移住している。たった1年ごとにこれらを作ったなんて、全くの作り話である。
「憲法十七条」だけが、突如「聖徳太子(皇太子)自ら」と記されたのも不自然である。
「憲法十七条」は、後からの『日本書紀』の捏造であることは明らかである。
● 斑鳩宮に移住
何故、飛鳥から遠い所に移住したのか? 片道約25㎞もある距離は、暑さ寒さ風雨の中、ぬかるみの道なき道をポニーのような仔馬に乗って2~3時間(往復4~6時間)通うのである。毎日通勤することは不可能であり、登庁せず仕事をしていなかったのは間違いない。ということは、聖徳太子はこの頃から政策に関与していなかったことになる。冠位十二階も憲法十七条も遣隋使派遣も国史編纂も経典講義も、官僚・渡来人・僧侶たちが実務を行って初めてできるのである。
すなわち、彼の偉業はなかったことになる。「偉い聖徳太子はいなかった」のである。
もちろん『隋書』「日出づる処の天子・・・・」のところに、聖徳太子(皇太子)の文字は全くない。さらに、この文章が『隋書』には記載されていても、何故か『日本書紀』には全く記されていないのだ。このことが隋帝を怒らせ外交的失敗だったため、国の恥として記録に残さなかったのだろうか。聖徳太子が国の独自性を発揮した、などという評は推測の礼賛に過ぎない。『日本書紀』には、小野妹子を隋へ送り出した後、帰国して隋の随行員への饗応、再び隋へ送り出す一連の遣隋使の記事の中に、一回も聖徳太子(皇太子)の文字はない。
ちなみに、『隋書』には聖徳太子(皇太子)をうかがわせる記述は全くない。
● 法隆寺(西院伽藍)は聖徳太子が建立したものではない
現存の法隆寺は、聖徳太子が建てた寺院ではない。
『日本書紀』によると、聖徳太子が建てたという最初の法隆寺(斑鳩寺)は、創建後64年にして火災にかかり一夜にして焼失したと伝えられている。再建された法隆寺、すなわち現法隆寺は、天武天皇時代の七世紀後半の673~685年の間に着工され、和銅年間708~714年に完成したという。斑鳩寺は、『日本書紀』の解釈によれば606年(推古天皇14年)、寺伝によれば607年(推古天皇15年)に聖徳太子が建立したとされる。それが現在、若草伽藍跡として発掘された。
少なくとも、現在の法隆寺と聖徳太子は全く関連性はない。
飛鳥時代の建築ではなく奈良時代のものである。
このことは、近年、法隆寺側もやっと認めている。
●『勝鬘経』『法華経』を講義、『三経義疏』著作はウソである
聖徳太子の仏教に対する理解が、経典を講義できるほど習得していたのかをめぐっては、疑問だという説が多い。この時代、日本の仏教知識はそれほど広まっていなかった。
『日本書紀』には606年(推古14年)太子が推古天皇に『勝鬘経』と『法華経』を講義したことは書かれているものの、『三経義疏』を作ったという記述どころか、『三経義疏』という言葉も出てこない。『三経義疏』は、法隆寺「東院資財帳」によると、行信という僧がどこからか探してきて法隆寺に寄進したと記録されている。聖徳太子信仰隆盛のために、聖徳太子作として捏造したものであるとされている。これが世に言う「『三経義疏』偽書説」である。
『三経義疏』は太子の撰ではないという説は津田左右吉氏以来あり、小倉豊文氏は、『三経義疏』が太子撰とされるのは太子信仰の成立した747年(天平19年)以降とした。
そして勝鬘経義疏に関しては、藤枝晃氏の説がある。そこでは勝鬘経義疏は、隋で「勝鬘経義疏本義」をもとに改編されたもので、それを遣隋使が日本にもたらしたものと結論づけられている。
●『天皇記』『国記』の編集には参加していない
聖徳太子は、605年(推古13年)に都から離れた斑鳩宮に移住してから、ほとんど国政に参加していない。『日本書紀』にも、ほとんど登場していない。国史編纂のところで、久し振りに聖徳太子が出てくる。
斑鳩から飛鳥まで25㎞、通勤時間片道2~3時間では繁茂な出勤は不可能である。国書編纂というものは、多くの官僚・知識人が年月をかけて協議の末、完成できるものである。ということは、聖徳太子は国史編纂に参加していないことになる。『日本書紀』の後付け美談である。
(江戸時代編集が始まった水戸藩『大日本史』は著名な学者だけでも10名以上、様々な波乱を経て250年という歳月がかかっている。水戸光圀が、ひとり偉くてできたものではない。)
『天皇記』も『国記』どちらも、天皇ではなく蘇我氏が保管していたことが『日本書紀』から分かる。これらの編纂は蘇我馬子が知識人や渡来人を使って行ったということである。
● 聖徳太子の死去
死亡日時、原因が疑惑に包まれている。
『日本書紀』では天皇でもない人物の死亡時の様子が細かく描かれている。聖徳太子礼賛の書物であることがよくわかる。
621年(推古29年)2月 5日、厩戸皇子(聖徳太子)薨去。(『日本書紀』)
622年(推古30年)2月22日、厩戸皇子(聖徳太子)薨去。(法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘・天寿国繡帳・『上宮聖徳法王帝説』)
何故だか、死亡日が1年も違って2通りある。あの聖徳太子ともあろう人の死亡日が全く違うのはどういうことか。
死亡原因も、伝染病、自殺、心中、暗殺、疑惑がわいてくる。
聖徳太子が行ったとされる偉業は、ほとんどが確実視されていないか、打ち消された。
遠い斑鳩に住んでいて、都に登庁せず、仕事はしていなかったのだ。
皇国史観から抜け出せない推論を膨らませるのは止めて、残された史料や事実だけに絞っていくと、聖徳太子については、次の事実のみとなる。
●聖徳太子誕生
●斑鳩宮の造営、移住
●聖徳太子死亡
このことのみ、確実なことである。
「太子信仰」のベールをすべてはぎ取れば、聖徳太子には何が残るのか?
「太子信仰」の内容や肖像画を一切使わずに、聖徳太子を説明すると、無味乾燥なものになるだろう。もう「聖徳太子物語」は成り立たなくなった。
真実は、「偉い聖徳太子はいなかった」「聖徳太子は、言われている程、偉くはなかった」
のである。












