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奈良の鹿たち

悠々自適のシニアたちです

 

『渡来人』

第4回

稲作を伝えた渡来人

 

●概略

水稲の本格的な開始は、水田遺構が発見されている縄文時代晩期の紀元前(BC)10~9世紀の九州北部が最初とされる。

我々の食するジャポニカ米の祖先は、日本列島の現生種ではなく大陸側から伝来したと考えられる。長江下流域の遺跡などにおける考古学的発見に根拠を求めている。

「日本列島における稲作は、弥生時代に始まった」というのが、ついこの前までの歴史学の定説だった。

しかし、2003年、国立民族歴史博物館の研究グループが、水田稲作(水稲)は従来より5世紀早まり、BC(紀元前)10世紀(約3000年前)には渡来したと発表した。

2005年、岡山県の彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の土層から、大量の稲のプラント・オパール(ガラス質に変化した植物珪酸体化石)がみつかっており、縄文時代には稲作(陸稲)をしていたとする説が有力となってきた。

また、2013年3月、熊本県本渡市の大矢遺跡から出土した縄文時代中期(約5000~4000年前)の土器に、稲もみの圧痕が確認された。 全国最古のもので、縄文中期に稲作があったことを示す貴重な資料という。 圧痕は、土器の製作中に稲もみなどが混ざって出来た小さなくぼみ。 

 

●水田稲作の伝来ルート

コメ作りの起源は中国の長江中下流域で、約1万年前に始まったとされる。

コメ・稲作のみが日本にやってくることはない。必ず渡来人がいることは確かである。

イネの日本列島への伝来に関しては、「朝鮮半島経由説(間接ルート)」、「江南説(直接ルート)」、「南方経由説」の3説がある。

北九州に新しい温帯ジャポニカの水稲栽培を伝えたのは、中国本土から直接、または朝鮮半島経由で日本列島に住み着いた渡来人たちだったことは確実である。彼らがもたらしたのは単なる稲籾(もみ)だけではなかった。苗代(なわしろ)や代掻き(しろかき)などの耕作方法、水路・堰(せき)などの灌漑施設作りとそれを維持管理する知識、さまざまな農器具作り、収穫物の貯蔵方法といったノウハウとパッケージだった。

今のところ、朝鮮半島経由説が有力ではあるが、1度や2度の渡来だけではとても伝えきれるものではなかった。稲作技術は、何度も何人もの人々が渡来してきて、徐々に出来上がっていったのだろう。

 

<朝鮮半島経由説(間接渡来説)

長江流域に起源がある水稲稲作を伴った大きな人類集団が、BC(紀元前)6~BC5世紀には呉・越から北上し、山東半島~朝鮮半島から日本列島へと渡来したとする説である。

朝鮮半島経由説は、さらに①華北から陸伝いに朝鮮半島を縦断 ②山東半島から黄海を渡り遼東半島を経由し朝鮮半島を縦断 ③山東半島から黄海を渡り朝鮮半島南西海岸から南下の3つに分かれる。現在のところ、朝鮮半島経由説の③山東半島から黄海を横断し朝鮮半島を経て日本に伝来した経路が有力とされている。北九州地方で出土する石包丁などが、中国や朝鮮で出土するものと似ている点をその根拠としている。

佐賀県唐津市の西南部で発見された「菜畑(なばたけ)遺跡」は、我が国最古の水田遺跡で、水田稲作の開始時期が通説より300年さかのぼり縄文晩期だったことが明らかになった。

水田の遺構は、朝鮮で最古の慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡が3100年前で、日本で最古の菜畑・板付遺跡が2900年前である。菜畑遺跡からは、韓国慶尚南道の系統の「朝鮮無文土器系甕」や、朝鮮式の石包丁、鍬などが出土している。

平壌市にある無文土器文化時代前期(BC1500年代)の南京里遺跡では、水稲農耕が行われていたといわれている。

朝鮮半島の無文土器文化の担い手は、長江文明の流れを汲んだY染色体ハプログループであり、朝鮮半島に水稲農耕をもたらした渡来人も同集団であると考えられている。

山東半島の沿岸は、古代稲作民の領域の北端に連なっていたと考えられる。殷の時代の前の龍山(ロンシャン)文化期(BC2300~BC1500)に稲作遺跡は半島の南部には確実に存在していた。山東省の日照市両城鎮で龍山文化期のコメが出土している。瑯琊(ろうや)山とその港から古代の人々は、朝鮮半島への移動の航路を開拓していったと想像できる。

また、遼東半島経由で北方から朝鮮半島に進んだという説もある。

福岡市教育委員会の山崎純男氏は、朝鮮半島から最初に水田稲作を伴って渡来したのは支石墓を伴った半島南西部の全羅南道の小さな集団であり、遅れて支石墓を持たない半島南東部の慶尚道の人が組織的に来て「かなり大規模な水田開発を伴っている」としている。

 

<江南説(直接渡来説)>

温帯ジャポニカ米を携えた渡来人が、水田稲作の先端技術を持った長江下流の江南から日本列島へと直接やって来たとする学説である。そして、下記のような複数の証拠をあげている。

・研究の進展から、朝鮮半島での水稲耕作が日本列島より遡(さかのぼ)れないこと。

・極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子が確認されないこと。

・江南と日本列島の最短経路であるだけでなく、東シナ海には対馬海流の支流が環状を成しており、集団渡来を容易ならしめる要素が存在すること。

・弥生時代の文化が、北方文化に属する朝鮮半島とは異なり江南地方の照葉樹林文化に属すること。    

・春秋戦国時代の避難民が、長江流域の江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したこと。

 

特に興味深いのは、長江文明が約4200年前に突然滅亡したという事実だ。同時期にエジプト、インダス、メソポタミアなどの文明も衰退しており、北半球全体の気候変動がその一因とされている。弘前大学の研究によると、長江河口近くの海底堆積物を分析した結果、約4400~3800年前に複数回の水温低下があったことが分かっている。これが長江文明の水稲栽培に致命的な影響を与え、移住を促した可能性がある。

 

元静岡大学教授の佐藤洋一郎氏は、DNA解析よる水稲の源郷は「長江下流の江南地方」であり、その伝達経路は中国から日本列島への直接ルートとした。朝鮮半島に存在しない中国固有の水稲が日本列島で出土しており、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本列島に伝来した可能性を示唆している。また、イネの開花時期との関係で、少なくとも遼東半島や朝鮮半島の高緯度の北方経由ではないとしている。

これまでの朝鮮半島一元論を主張してきた説に対し、縄文時代に熱帯ジャポニカ米と陸稲文化が、弥生時代に温帯ジャポニカ米と水稲耕作が各々別々に渡来し、多重の文化を成していると主張している。

さらに、佐藤氏は興味深い指摘をしている。大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったという。それが中国から日本列島へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」である。

日本列島の各所に点在するのはRM1-b遺伝子。中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。なお現在の日本列島に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類である。これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本列島に伝来したルートであることを裏付ける証拠とされている。 すなわち、遺伝学的には直接渡来は確定的といえる。

 

また別の反論では、温暖・湿潤な環境を好む稲が、乾燥・寒冷地帯を北上してから、朝鮮半島を南下して九州へというのは、農産物の性質と気象の関係に反するものであり、長江流域(温暖、湿潤)―遼東半島(乾燥、寒冷地)―朝鮮半島を経由して日本列島へという稲作の伝播はあり得ない、としている。

しかし、農具,武器,土器は朝鮮半島の発掘物に酷似したものが見られるが、長江文明では見られない。また、「BC(紀元前)500年頃からの春秋戦国時代に巻き込まれた人達が渡来し稲作を伝えた」というような説は、水田稲作がBC10~8世紀には渡来したのであれば、もう成立しない。

元神奈川大学教授の河野通明氏は日本列島への稲作民の来住は、第1波が朝鮮半島から、第2波は中国江南地方からと2度あったとしている。

 

<南方経由説>

中国の長江下流域からの南西諸島を経由して九州に伝播されたとする説。

北里大学の太田博樹准教授は、下戸(げこ:アルコールに弱い。日本人の傾向)の遺伝子と称される遺伝子の分析から、稲作の技術を持った人々が中国南部から沖縄を経由して日本に到達した可能性を指摘しており、生化学の観点からは佐藤洋一郎氏は、熱帯ジャポニカの伝播ルートとして江南説とともに南方経由説も支持している。

南島経由説は、柳田国男が提唱した「海上の道」として有名である。イネを携えた中国人が、宝貝を求めて八重島や沖縄、奄美など南西諸島を黒潮に乗り北上してイネをもたらしたという。

熱帯ジャポニカは現在でも中国南西部からインドシナ半島奥地とフィリピンやインドネシアなどで栽培されている。また熱帯ジャポニカ固有の遺伝子を持つ品種が台湾の山岳部から南西諸島を経て九州に達している。こうした事実を考え合わせると、海上の道ルートが注目される。

しかしながら、考古学の観点からは沖縄ではグスク時代(11世紀~)まで稲作の痕跡がないことから、南方ルート成立の可能性は低いとされている。

 

稲作伝来について、物質的、時間的には「朝鮮半島説」が有利だが、植物学、遺伝学的には「江南説」が有利だといえる。

経路はこのうち一つかもしれないし、いくつかの伝来経路を経ているかもしれない。

2023年の農林水産省の公式見解では「朝鮮半島南部を経由したという説、または、中国の江南地方あたりから直接伝わった説が有力ですが、台湾を経由したという説もある。」と述べていて、朝鮮半島経由説と江南説のどちらが有力であるかについては明言されていない。

 

 

 

 

 

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次回は第5回「鉄を伝えた渡来人」

 

 

(担当H)

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