『渡来人』
第5回
<鉄・青銅を伝えた渡来人>
かつては、弥生時代は「弥生土器」が判断基準であり、その開始は紀元前300年頃といわれていた。そして水田稲作と青銅器・鉄器が、ほぼ同時に伝来した、といわれてきた。
その後、基準が「水田稲作の開始」に変わり、さらに、弥生時代の開始が紀元前10世紀(紀元前8世紀とも)と遡(さかのぼ)ったのである。2003年(平成15)、国立歴史民俗博物館の研究チームが水田稲作開始期の土器に付着していたススなどを炭素14年代測定した結果、紀元前10世紀の可能性があると発表したことによる。
なお、金属器の出現は紀元前4世紀以降で変わりない。
ということは、弥生時代初期に稲作技術が持ち込まれた後、約600年間は金属器のない石器だけの社会であったとなる。
これにより
①弥生時代前半(紀元前10世紀~前4世紀)は「新石器・稲作 弥生時代」
②弥生時代後半(紀元前4世紀頃以降) は「金属器・稲作 弥生時代」
となった。当然、その間には新石器と金属が混在した時代が長くあった。
日本列島への青銅器の渡来
朝鮮では青銅器が紀元前10世紀ごろから、鉄器は紀元前4世紀ごろから使われはじめていた。あまり時を置かず、日本列島でも銅も鉄もほぼ同時に紀元前3世紀ごろから使われるようになった。
西アジア及び中国・朝鮮においては青銅器の道具や武器が使用されていた青銅器時代があったが、日本列島においては鉄器と青銅器が弥生時代にほぼ同時に伝来したため青銅器時代は存在しない。それが渡来人によって列島に持ち込まれたと考えられる所以だ。
日本における青銅器の最古の例は、山形県三崎山遺跡出土の青銅刀子(せいどうとうす)で、縄文時代後期晩年のものとされている。年代がより確実なものは、弥生時代前期初頭(紀元前8世紀頃)と考えられている福岡県今川遺跡出土の銅鏃(どうぞく)や銅鑿(どうのみ)だ。これは中国東北部で作成された遼寧式(りょうねいしき)銅剣の破片を再加工したものといわれる。
青銅器の完成品をもたらしたのは、明らかに渡来人たちだが、鋳直しや加工をしたのも始めは渡来人たちだったのだろう。
西アジアからの鉄の伝播
現在の西アジアのトルコ付近で古代オリエント時代の遊牧騎馬民族ヒッタイト人が、BC(紀元前)1500年頃に製鉄技術を確立し,ヒッタイト帝国はこの鉄を武器にして強大な一大国家を築いた。当初は鉄の精錬技術を独占し、青銅器しか知らないエジプト等に対して武器の上で優位に立った。しかし、この技術を頑なに秘匿したことが仇となり、BC1200年頃に400~500年余りの短期間で滅亡した。ヒッタイト滅亡後はタタール人(「タタール」が「たたら」の語源とも言われている)がその技術が引き継ぎ、製鉄というものが古代オリエント地域から黒海やカスピ海の周辺→スキタイ圏→モンゴール圏→中国中央部を経て朝鮮半島まで伝播した。この経路は「アイアンロード」とよばれ、世界は青銅器の時代から鉄器の時代へと徐々に移行していった。中国では日本より数百年前から製鉄・製鋼が行われており、BC600年頃には鉄生産が普及していった。当時、中国は戦国時代で、漢の時代である紀元前200年頃には大量生産時代に入っていた。このころには、高度な熱処理技術も完成していたとされていて、これはヨーロッパより1000年以上早く、中国はBC400年ころから鉄の先進国であったといえる。
日本への鉄器の伝播
一般に日本列島に鉄器が入ってきたのは、BC(紀元前)4世紀~BC3世紀から始まる弥生時代中期と考えられている。
今のところ、弥生時代の鉄器で最も古い確かな例として、山口県下関市豊浦町山の神遺跡出土の鋤先がある。袋状の貯蔵穴の底から、弥生時代中期初頭~中頃(BC3世紀~BC1世紀頃)の土器と一緒に見つかった
鉄は、鉄器という完成品として持ち込まれた以外に、鉄の素材(鉄鋌)という原料の形で持ち込まれ、農機具などにつくり直された。これらの道具は韓鋤(からすき)とか韓鍛冶(からかじ)とかの名前が残っているように、朝鮮半島南岸の加羅諸国などから日本にやってきた渡来人の技術で生産されていた。
日本列島で最初に製鉄が行われる弥生後期~古墳時代までは、鉄鉱石から鉄を取り出す精錬技術はなく、大陸で製鉄された鉄を輸入し、これを加熱・鍛造するなどの鍛冶工程だけが国内で行われていた。
鉄による身分格差の誕生
このような新しい力を持った渡来人たちは、それより前に日本列島にやってきて稲作を伝えた弥生人たちよりも優位の立場になった。この新しい渡来系支配者たちは、鉄器を使って木を伐採し、ため池・堤防・用水路などをつくり、武器まで鉄製に変えた。
渡来人たちは、その知識の優位性で勢力を持つようになり支配的豪族になっていった。そして、隷属する従来民との経済格差をつくっていった。
かくして富のシンボルとして誕生したのが古墳だった。今までの日本列島になかった古墳という盛り土の墓をつくることや、古墳に宝物を埋葬したり、古墳の壁に絵を描く習慣なども列島に持ち込んだ。これらの技術や習慣は、それまでの日本列島には全くないもので、すべて朝鮮にあったものだった。古墳の中から見つかる副葬品や壁画は、当時の朝鮮のものが多いことからもわかる。すなわち、日本各地にある多くの大型古墳に葬られている豪族は、朝鮮半島出身の渡来人かその末柄であることがわかり、いかに渡来人が古代日本の支配層になっていたか知らされる。
鉄の製造
当時、日本列島における鉄は朝鮮半島の三韓の一つ弁韓から輸入されていて、『魏志東夷伝弁韓』の一部にも、「国、鉄を出す、韓、濊、倭、皆従ってこれを取る、諸市買うに皆、鉄を用い、中国の銭を用うるが如し、また二郡に供給す」とあり、弁韓の鉄が日本にも輸出されていたことがわかる。そして、多くの渡来人が鉄の流通や製造に関与していたことが推測される。
中国の歴史書『三国志』にも、朝鮮の鉄を倭国が受け取り、倭国の土器や米(モミ)を朝鮮が受け取ったことが記載されている。
それにより、朝鮮半島との往来が便利な北九州が、鉄を輸入しやすい文化の最新地域として発展した。
また、朝鮮半島と九州の間に位置する壱岐島には大陸の文明・文化を我国に移入する際の中継地であった。代表的な遺跡が壱岐市のカラカミ遺跡である。この遺跡は弥生中期から後期にかけて(BC数世紀~西暦3世紀頃)の多くの鉄製品が出土している。
倭国の朝鮮侵略と俘囚渡来人
神功皇后の新羅遠征物語は神話だが、DC(紀元後・西暦)391年に倭軍が海を渡って百済や新羅など三韓諸国と高句麗を攻撃した倭・高句麗戦争は事実で、高句麗の好太碑文(こうたいおうひぶん)にも、「西暦391年に倭国が百残新羅を破り、臣民と為す」の記述が見える。
倭国最初の外征には、大量の人員と船や武具、防具、武器、食糧などが必要だったが、当時の大和朝廷はこれを為す国力があったということだ。
倭国の新羅進攻は鉄資源の確保が大きな目的だった。高句麗が百済・伽耶を圧迫し始めたため、百済と倭国はこの状況に危機感を強めた。
戦乱を逃れて、陶質土器や製鉄の技術者が倭国に渡ってきた。
しかし、朝鮮半島に足がかりをつかんだ大和政権は、朝鮮半島諸国から金銀財宝、鉄資源、そして優れた鉄職工を虜囚(りょしゅう)として強制的に連れて来た。
また、『古事記』には、百済王が韓鍛冶(からかぬち)の卓素(たくそ)を倭に献上したことが記されている。韓鍛冶とは、大和朝廷にに仕えた朝鮮渡来人の鍛冶部(かぬちべ)のことで、鍛冶・銅工・金作などに従事した。倭国に連れて来られた職工たちは、朝廷に隷属する奴婢(ぬひ)として俘囚臣(ふしゅうしん)という名称を与えられ、砂鉄の産地に強制的に配置されて鉄生産に従事させられた。彼らの存在は、常陸国俘囚臣川上部首厳美彦(ひたちのくに ふしゅうしん かわかみべ おびいつみひこ)や、陸奥国俘囚臣河上首嘉久留(むつのくに ふしゅうしん かわかみおび かくる)等の名前が鉄剣の銘文(奈良 石上神宮 所蔵の刀剣)などから見い出せる。彼らの技術は尊敬され讃えられたが、同時に技術を官が独占する目的から、厳しい監視と行動制限の下で一生を終えた。古代日本の鉄技術の隆盛には、渡来人職工の悲劇の物語が存在している。この悲劇は、豊臣秀吉の朝鮮侵略のときに連れてこられた陶工たちと重なる。司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』は、その陶工たちの悲劇を描いたもので、むろん故郷とは家族のいる朝鮮のことである。
彼らは言わば、「悲劇の渡来人」とでも言えるだろう。
====================
(担当H)
====================