『渡来人』
第9回
<飛鳥時代の渡来人>
飛鳥時代は、蘇我氏が飛鳥の地で政治を主導的におこなった時期がその始めとみとめられるので、7世紀は中頃まで古墳時代と飛鳥時代が重複します。
646年に実効性は疑われているが薄葬令が出され、このころから大型の前方後円墳がつくられなくなった。707年に文武天皇が火葬され、この八角墳を最後に古墳がつくられなくなる。また、飛鳥時代の成立が明確ではなく、ここでは蘇我政権が確立された7世紀初頭とします。すなわち、古墳時代は3世紀中頃~7世紀中頃で、飛鳥時代は7世紀初頭(600年頃)~平城京遷都の710年となります。
<飛鳥時代 主な出来事>
●飛鳥時代の渡来人
7世紀になって渡来人が続々と文化や技術をもたらした。
・602年 百済僧の勧勒(かんろく)が渡来し、天文、暦本、陰陽道を伝えた。
・604年 初めて暦を使用した。
・610年 高句麗僧の曇徴(どんちょう)が渡来し、紙・墨・絵の具を伝えた。
・612年 百済人の味摩之(みまし)が渡来し、伎楽舞を伝えた。
663年(天智2)に倭(日本)の水軍が唐の水軍との白村江の戦いで大敗し,百済復興の望みが絶えると,そのとき百済の貴族・官人以下おそらく4000~5000人以上の人々が倭に亡命してきた。またその5年後には、高句麗も新羅と連合した唐の軍勢に攻め滅ぼされたが,そのときにも高句麗王族を含むかなり多数の亡命者があった。おそらくこのときの亡命者群が,古代渡来人の中では最大のものだったと思われる。その中には百済・新羅の役職にいた氏族もおり,その子孫たちは都に近い奈良や琵琶湖周辺に多く居住して国政や経済活動に関与した。さらに,唐から遣唐使とともに来た渡来人たちもいて,朝廷の政治に大きく関わる者が増えた。
飛鳥時代の知識層の渡来人たちは、その新しい学芸・技術をもって古い渡来人を圧倒し、蘇我氏の時代から大化改新前後にかけて、中央集権的な国家制度の発達と貴族的な飛鳥文化の展開のために目覚ましい活躍をした。初期仏教史上に名高い鞍作(くらつくり)氏の司馬達等(しばたつと)とその孫の止利(とり)仏師、遣隋留学生として中国に赴き、帰国して大化改新に参画した高向玄理(たかむくのくろまろ)、僧旻(そうみん)などはその代表的な例である。
当時の倭国の文化・文明は渡来人抜きに考えることはできない。
彼らを通して中国大陸・朝鮮半島の先進的文化・文明 は日本列島にもたらされ、倭国の歴史・文化を大きく前に押し進めた。すでにそれは5世紀後半から始まっているが、飛鳥時代にはいっそう渡来文化の倭国への影響は大きくなった。中国の新文明の導入にあたった遣隋使の、「学生」「学問僧」合計8人のすべてが渡来系氏族の人物であったことは、明白に倭国における渡来人の位置を物語っている。
●飛鳥~奈良時代の渡来系氏族
<秦氏(はたし)>
4・5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏である。
秦氏の伝承には疑問が多いが, 4・5世紀ごろに朝鮮半島の新羅からきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族だ。弓月君は127県の3万~4万人の人夫とともに九州に渡来した。土木技術や農業技術などに長けていた秦氏は、灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行った。また、大和朝廷のもとでは財政担当の役人として仕えていた。本拠地は6世紀に奈良と京都の境の山背(やましろ)地域にあったが,後に京都市の太秦(うずまさ)に移り住んだ。中央での活躍と共に,秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで,全国規模で勢力を伸ばしていった。秦氏は、畑作・養蚕・酒造・機織・銅鉱山・鍛冶など、当時の最先端技術を倭国に伝え、習俗や宗教の成立でもわが国に多大な影響を与えた。
『古語拾遺』によれば、雄略朝に内蔵・斎蔵に加えて大蔵を創設された。大蔵では諸国からの貢物などを納め、秦氏にその出納を命じたとされ、秦氏の国政への関与の大きさをうかがわせる。これらの貢献 が引き続き飛鳥時代においてもなされて、冠位十二階の上から第3位の「大仁」の冠位をも得たという。
日本に古くからある神社のほとんどは、朝鮮からの渡来人一族の守り神を祭ったものだ。
稲荷神社は全国に約4万社あるが、その総本宮は京都の伏見稲荷だ。このあたり一帯は秦氏が5世紀ごろから開発し、711年に伏見稲荷をつくりはじめた。
八幡神社という名の神社は全国に約4万社あるが、その総本宮は大分県宇佐市の宇佐八幡神宮だ。伏見稲荷と共に秦氏の氏神としてつくられたものだ。ここ豊前地方に5世紀初頭、朝鮮半島の動乱を逃れて、新羅系渡来集団(後に秦氏系辛嶋氏となる)が大挙して入植し、彼らが信奉する「新羅の神」が持ち込まれた。古代の豊前地方(福岡県/大分県)の人口の85%が秦氏一族だったという説もある。
747年(天平19年)、宣託が降り「八幡神」は奈良の大仏建立への協力を表明する。大仏に塗る泥金が不足すると、「必ず国内より金は出る」と託宣を発し、その通り、金鉱が発見され無事に東大寺は完成した。東大寺を開山した初代別当は良弁で、彼の父は秦常満という秦氏であった。これらの功により781年(天応元年)、朝廷から鎮護国家・仏教守護の神として「八幡大菩薩」の神号を授けられた。
飛鳥時代、天皇は新羅より贈られた仏像(半跏思惟(はんかしい)の弥勒菩薩像)を秦河勝(はたのかわかつ)に授けた。603年(推古11年)に京都太秦に氏寺である広隆寺(蜂岡寺)を創建し、その仏像を本尊とした。
松尾大社(京都市西京区嵐山宮町)は、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、701年(大宝元年)に創建したといわれている。朝鮮半島より渡来してこの地に居住した秦氏は、松尾山の山霊を現在の社地に遷し,これを総氏神として仰いだ。そして、新しい文化・技術を駆使してこの一帯を開拓していった。平安京に遷都した後は都城を鎮護する神として崇められた。 松尾大社はお酒の神様として全国に知られている。
農業用水を確保するため、秦氏は桂川の水をせき止めて水路に流し込むための堰(せき)を築造した。京都嵐山にある渡月橋付近の葛野大堰(かどのおおぜき)にその姿を見ることができる。
現京都太秦地区を拠点としていた秦氏に関係のある神社として、木島(このしま)神社がある。正しくは木島坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社であるが、境内地にある摂社養蚕(こがい)神社から蚕の社(かいこのやしろ)とも呼ばれている。秦氏が養蚕や機織りの技術を広めたことからここに祀られている。ここには日本で唯一の三柱の鳥居がある。どのような意味を持つのかは不明で、キリスト教との関わりがあるという説もある。
<東漢氏(倭漢氏)(やまとのあやうじ)>
東漢氏は応神天皇の時代に百済(出身地は加羅諸国の安羅)から17県の民とともに渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ-阿智王)を祖とする氏族だ。東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま-奈良県高市郡明日香村)に居住して、大和王権のもとで文書記録、外交、財政などを担当した。また、製鉄、機織や土器(須恵器)生産技術などももたらした。4世紀、一部が岡山県倉敷一帯に定住し、社記によると一帯は阿知潟あるいは吉備の穴海と呼ばれていて、その中の小島に漁民が社殿を奉祀したのが阿智神社(岡山県倉敷市本町)とされている。
<西文氏(かわちのふみうじ)>
西文氏は応神天皇の時代に渡来した王仁(わに)を祖とする集団で、『古事記』・『日本書紀』によると王仁は倭国に「論語」「千字文」を伝え、文字をもたらしたとされる。西文氏は河内を本拠地として、文筆や出納などで朝廷に仕えていた。西琳寺(さいりんじ)(大阪府羽曳野市古市)は、欽明天皇の頃、西文氏が建立し法起寺式の伽藍配置である。
<鬼室氏(きしつし)>
白村江の戦いのあと、7~9世紀にも百済から多くの渡来人が亡命してきた。その中には百済・新羅の役職をもって渡来した氏族もおり、子孫らは奈良や琵琶湖周辺に多く居住し、朝廷の政治に大きく関わる者もいた。
『日本書紀』には「余自信・鬼室集斯(きしつしゅうし)ら男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居」(669年(天智8年))という記述がある。鬼室集斯は白村江の戦いで活躍した百済の将軍鬼室福信の子で、近江朝廷では学識頭にまでなっている。琵琶湖東部の滋賀県八日市市や蒲生郡には多くの渡来人たちが住んでいた。蒲生はもとは荒れ地だったが、多くの渡来人たちによって開墾された。彼らの技術や労力によって社寺も建設されたと考えられる。
日野町に鬼室神社(きしつじんじゃ)、蒲生郡に石の祠のある石塔寺(いしどうじ)、愛東町に百済寺(ひゃくさいじ)がある。
●東国開拓と渡来人
飛鳥時代、朝鮮半島の百済(665年)や高句麗(668年)が滅亡する前後にも、その亡命渡来民が大挙して倭国へやって来た。その頃、大化改新や律令制度などによって、律令国家の体制は一応整備され、畿内およびその周辺は高度な文化をもつようになった。そのため、政府の従来の渡来人対応が変わった。すなわち、新しくやってきた渡来人たちを、畿内から離れた遠く東山道や東海道の未開・後進の閑地に移住させ、彼らを労働源とすることによって東国開拓を進めた。『続日本紀』には、758年(天平宝字2年)に新羅郡を設置し、新羅人を「武蔵国の閑地に移す」と記述してあり、716年(霊亀2年)に高麗郡を設置して高麗人を「武蔵国に遷す」とある。彼らはこうした未開拓の地におかれたが、営々として開発に努力したのである。その際、彼らは、本国の進んだ農業技術を発揮し、この国の原始的農業をより進んだものに発展させた。
渡来人に対する政府の処遇については、『日本書紀』の次の記事によってもうかがい知れる。
687年(持統元年)3月・4月の条に、常陸に高麗人を、下野と武蔵に新羅人を、それぞれ移住させ田地と食糧を給与して、安心して農作業を励むように配慮したという。また、戸令には次のような規定がある。外国(化外)の人は、寛国すなわち、畿内から遠く離れた未開・後進の土地で、公民として戸籍に入れて(貫に付す)安置せよということである。
●飛鳥の都
722年に書かれた『続日本紀』の前書きによると、当時の飛鳥の都の住民のうち、8~9割は百済からの渡来系の人々で、国の政治は百済人によってなされていたといえる。
そして、それを取り仕切っていたのが次に述べる蘇我氏だ。
「飛鳥(あすか)」は、普通の日本語では馴染めない読み方だ。「アスカ」とは、古代朝鮮語で村のことを言い表す「スカ」に接頭語の「ア」がついたものといわれる。
●蘇我氏と渡来人
当時、勢力をもっていた蘇我馬子は、渡来人をうまく支配下において政策を実行した。屯倉の創設、冠位十二階、遣隋使、仏教興隆、飛鳥寺造築、国史編纂など多くの実績を残した。国の基本である班田制や公地公民制も、みな蘇我氏のもとでおこなわれた。
592年(崇峻5年)11月、崇峻天皇は、馬子の命令で東漢駒(やまとのあやのこま)に殺害された。東漢(やまとのあや)氏は、常に蘇我氏のもとにあった渡来人集団だった。これは、蘇我氏と渡来人とのきずなの強さを示す出来事だった。蘇我氏は渡来人生産者集団を支配下に置きながら政権を主導した。飛鳥の都を建設したのは蘇我氏で、蘇我氏が飛鳥時代を開いたといえる。
蘇我氏と渡来人集団との接点は、蘇我氏が滅亡した葛城氏から血脈と利権を継承して、朝鮮から強制連行した渡来人をそのまま受け継いだことに始まる。蘇我稲目の時代に、百済から公式に伝来した仏法の管理を大王(天皇)から委任されたことで、仏教に付随した文化・技術をもその管理下に置くことになった。
ひいては渡来人集団全体が蘇我氏の管理下に入ることになったのである。
蘇我馬子は、仏教を奨励し、飛鳥寺を建立し、冠位十二階を定め、遣隋使を派遣するなど、大陸系の社会制度や学問を積極的に導入した。
596年(推古4年)馬子は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺(法興寺)を建立した。『日本書紀』によると、このときは、百済の王から寺院建築の技術者や仏教僧たちの派遣を受け、高麗国の大興王からも黄金三百両が貢上されたということだ。
蘇我一族のルーツは奈良を拠点とした「倭人」というのが学界では有力だが、「朝鮮半島からの渡来人だった」との新説が、元奈良県立橿原考古学研究所学芸部長の坂靖(ばんやすし)氏によって打ち出された(『蘇我氏の古代学』)。
蘇我氏は朝鮮半島西南端の全羅南道出身と推測した説だ。全羅南道には、日本特有の前方後
円墳がいくつも発見されており、相互交流の形跡が見られることが知られている。ヤマト王
権と百済王権の間にあって、両方の文化に通じた氏族たちが、様々な理由で5世紀に飛鳥に
定住した。その渡来人たちを束ねて頭角を現したのが蘇我氏の祖先だったと推測している。
新羅、百済、高句麗を比べると、高句麗がいちばん文化は発達していた。高句麗は鉄器もふんだんにもっていて、中国文化の影響を受けている。古墳でも壁画でも、高句麗がいちばん発達している。高句麗文化は、中国北魏のものが入ってきていて、しっかりした制度であった。蘇我氏の律令国家というものは、基本的には高句麗から受け継いだ。
年代では570年前後の6世紀。 律令制度や仏法などの法的なものは、6世紀に高句麗文化の影響を受けて形成された。仏教寺院の飛鳥寺をつくっていく時期は、伽藍を作る技術や文化、律令体制構築の知識、一貫して高句麗の影響を強く受けている。
蘇我氏の社会文化は高句麗抜きでは考えられない。
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次回は第10回(最終回)「奈良時代の渡来人」
(担当H)
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