『渡来人』
第10回(最終回)
<奈良時代の渡来人>
平安時代以降も絶えず少数の来住者があったが,日本史上で渡来人といえば,主として奈良時代ころまでの人々を指すのが普通である。
奈良時代は、8世紀、平城京遷都の710年から平安京遷都の794年の85年間である。
また、「日本」という呼称は内外とも7世紀末頃から使われ始めたようだ。
●百済・高句麗の亡命者と奈良時代の渡来人
2024年4月、理化学研究所の共同研究グループが、3000人余りの現代人の遺伝情報を分析した結果を発表した。それによると、現代の日本人の約25%が古墳時代の日本に来た東アジア系の渡来人の子孫であった可能性が高くなった。そして、その中の25%近くが、古代の黄河流域の中国人の遺伝情報と共通のものであることが明らかになった。その想定に従えば、人口の25%が高句麗や百済、新羅から古墳時代に移住した渡来系の子孫であったことになる。古墳時代末の日本の人口を550万~560万人、奈良時代の約600万人とする推計がある(小山修三氏)。
となると、古墳時代の渡来系人口は130万~140万人、奈良時代は150万人ほどと見積もられる。
朝鮮半島を統一した新羅との関係がそれほど親密ではなかったためもあって,朝鮮からの渡来者はほとんど来なくなった。中国からも,唐僧 鑑真(がんじん),波羅門僧 菩提遷那(ぼだいせんな)などの僧仏哲のように,遣唐使の往復に伴って渡来したものが散発的にあったに過ぎない。このようにして4世紀後半以来の活発な渡来人は,7世紀半ばでほぼ終止符が打たれることになった。その間に渡来した百済・高句麗の亡命者たちは,それぞれの時期の日本古代国家の社会と文化の形成と発展に寄与した。さらにその子孫たちは,貴族社会の大きな構成要素となり,天平文化の重要な担い手として活躍することになった。
弘仁年間(810~824年)に編纂された『新撰姓氏録(しんせんしようじろく)』をみると,そのころ京畿在住の氏族で系譜の確認されたもの1065氏のうち,渡来系氏族は326氏で,全体の約30%を占めており,その内訳は漢(中国系)163氏,百済104氏,高麗41氏,新羅9氏,任那9氏となっている。
●大仏建立と渡来人
奈良東大寺の金堂(大仏殿)には身の丈16mの毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)がある。この大仏は、今から約1250年前、奈良時代に建立されたものだ。
この大事業は、朝鮮渡来系の僧や技術者らの総力によるものだった。渡来人の力がなければ、大仏をつくることが出来なかった、と言っても過言ではない。
大仏建立事業の総監督は国中連君麻呂(くになかのむらじきみまろ)で、746年に「造仏長官」に任命された。彼は百済から渡来した祖父にもつ技術者で、君麻呂の祖父は国骨富(こくこつふ)という名前の百済の官人だった。百済が滅亡した時に日本にやってきた仏像づくりの技術者グループのリーダーになった。君麻呂は在日3世ということになる。
大仏鋳造の技術的指導者は、高市真国(たけちのさねくに)(大国)、高市真麿(たけちのさねまろ)、柿本男玉(かきのもとのおだま)で、彼らも大和国高市郡に住んだ百済系今来(いまき・最近やってきたという意味)の渡来技術者だった。大仏殿の建築も、猪名部百世(いなべのももよ)ら新羅から来た渡来人の技術者集団によるものだった。
この事業に民衆の力を結集させたのが行基だった。
行基は、河内国大鳥郡蜂田郷(大阪府堺市)で生まれた百済系の渡来氏族出身だ。彼のの師である道昭と義淵も百済系だ。このような環境の中で、渡来人としての技術的、思想的な先進性を兼ね備えた人間に成長した。支配に対して慈悲というものをはじめて説いた。布施屋(ふせや)という施し小屋を建て民生事業を各地で興した。
大仏殿をつくるために仏教を広めながら、山を削り、谷を埋め立てて平地にするための土木工事の技術的指導をおこなった。行基のまわりには、連日数千人の人々が集まったと言われ、行基菩薩と呼ばれて尊敬されていた。はじめ、朝廷は行基を危険な人物として弾圧したが、民衆の心をつかんでいる行基の力を利用するため協力を依頼し、後には大僧正にまでなった。
建立に際し、多くの寄付が寄せられて、寄付した人々の名簿が、東大寺の古い文書に記されている。百済王敬福の親戚の一族が黄金900両、河俣連人麻呂が銭一千貫などと言われているが、そのほとんどが渡来人の一族によるものだ。これらの寄付は、行基が勧進(善行の勧め)を説いたことによるものと言われている。
長期にわたる大仏建立事業の期間中に、旱魃・飢饉・地震などの天災や技術的、物質的難題が次々と襲い、しばしば工事が難行した。
鋳造は「三箇年八ヶ度」、つまり3年にわたり、8回に分けて鋳造が行われたと言われている。すなわち、8段に分けて巨像を下から上へ順次鋳造したという意味に解釈されている。
技術的な困難さに加えて物資不足、特に像の表面に塗る金が足りず壁に当たっていた。そこに陸奥国(現在の東北東部)の国司・百済王敬福(くだらのこにきし きょうふく)から、小田郡(現在の宮城県遠田郡)で金が発見されたという朗報が入った。敬福は百済滅亡後に倭国に移住した百済王族の子孫だ。749年4月、黄金900両が駅馬(速い馬)で都に運び込まれた。
しかし、またしても難題が発生。融解した銅が鋳型の隅々まで滑らかに流れていかないことが露呈した。その解決への道筋をつけたのは、新羅から香春の地(福岡県香春町)に渡来した銅精製技術集団だった。
東大寺の境内にある手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)は、749年、大仏建立完成を祈願するために新羅系渡来人秦氏の守護神である大分の宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)から勧請されたものである。
莫大な人とカネとモノを注ぎ込み、750年1月27日、大仏鋳造が完成した。
752年4月9日の「大仏開眼供養」の導師を務めたのは、インドの婆羅門僧正 菩提僊那(ばらもんそうじょう ぼだいせんな)だった。正装の僧1万人が見守る中、僊那の筆で開眼した大仏の前で華やかな祝典が挙行された。皇室伝統の舞のあと中国の唐散楽、ベトナムの林邑楽、朝鮮の高麗楽と異国の音楽舞踊が続いた。
この大事業の中心的な役割を果たした東大寺の高僧の良弁や行基、また、良弁の師匠で聖武天皇に信頼された義淵も、百済からの渡来人だった。
奈良の大仏をつくった人のほとんどが、朝鮮半島からやってきた人々とその子孫たちであったことがわかる。
●朝鮮半島由来の日本語
・日本では「熊(くま)」の字がつく地名が多い。熊野、熊本、熊谷・・・。
「熊」を百済方言では「コム」を「クム」と言う。朝鮮の「天孫降臨」の「檀君神話」では、「コム:熊」は「聖なるもの」「神」とされている。
・「狛犬(こまいぬ)」の「狛<koma>」と「高麗<koma>」は同系語であり、神道と関連する言葉であるから、弥生時代、急激に増加した渡来人が倭国へ神道を持ちこんだと思われる。
・「奈良」:「ナラ」は「国」という韓国語であるという。
・「飛鳥」:普通の日本語では馴染めない読み方だ。「アスカ」とは、古代朝鮮語で村のことを言い表す「スカ」に、接頭語の「ア」がついたものといわれる。
・いわゆる「ずうずう弁」なるものは朝鮮半島に近い日本海沿岸(東北、出雲)に顕著な音である。出雲弁は文末に「~に」「~じ」「~がな」「~がや」・・などをつける。「行かない」を「行かんに」「行かんじ」、「食べる」を「食べえに」「食べえがや」、「降る」を「降うがな」「降うじ」などと言う。また、出雲大社の近郊では「~にゃ」をつける傾向があり、「本当だな」が「本当だにゃ」、「買うかね」を「買うかにゃ」などと言う。ニュアンスは異なるにしても、これらに類似した文末語がハングルにもある。東京弁の「~さ」、大阪弁の「~や」、石見弁の「~けえ」、山口弁の「~じゃ」なども、ハングルでよく使われる文末語である。
・出雲の「安木(やすき)」:韓国語の「ヤ」(非常に)「ス」(より良い)「キ」(所)
・『出雲風土記』に出てくる「八雲」「八重垣」「八千矛」「八十神」:加耶族にとって「八」は八つの方位を神聖なものとし「八」という数字そのものを聖なる数としていた。
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『渡来人』全10回 完
(担当H)
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