『東北の地質的景観』 第3回 磐梯山 | 奈良の鹿たち

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『東北の地質的景観』 

第3回

磐梯山(ばんだいさん)

 

 

                                   (「休暇村 裏磐梯」ブログより編集)

磐梯山は、もともとは富士山型の成層火山(コニーデ型)だったのですが、見る方向により山の形が全く変わります。その原因は、これまでの火山活動で少なくとも2~4回程度の山体崩壊が起こったからです。

概要

磐梯山は、福島県耶麻郡猪苗代町、磐梯町、北塩原村にまたがり福島県猪苗代湖の北に位置する安山岩質の成層火山です。磐梯火山は、主峰である大磐梯(おおばんだい)(1816m)、櫛ヶ峰(くしがみね)(1636m)、赤埴山(あかはにやま)(1430m)の三つの山体からなり、広義的にそれらを「磐梯山」とも呼ばれます。

(↑「磐梯山ジオパーク」より)

三つの山に取り囲まれて中央に径約1kmの沼ノ平火口の凹地(1400m)があります。過去に山体崩壊が何度か繰り返されて現在の山容となりました。かつては大磐梯のすぐ北側に小磐梯(推定1,750m)の山体がありましたが、1888年の水蒸気噴火にともなう山体崩壊と岩屑なだれで失われました。

会津盆地側からは、綺麗な三角の頂が見えることから会津富士(あいづふじ)、あるいは会津磐梯山(あいづばんだいさん)とも呼ばれています。

磐梯山の麓は南が表磐梯、北が裏磐梯と呼ばれます。表磐梯から見る山体は整った形をしているように見えますが、北側の裏磐梯は、噴火の爪跡が残る荒々しい姿を見せます。

磐梯山の地質

磐梯山と猪苗代湖周辺の地質には、古生代から新生代にかけての数億年にわたる地殻変動の跡が記録されています。

磐梯山と猪苗代湖の東側は川桁山地で、主に花崗岩類と変成岩類から構成されています。恐竜時代である中生代白亜紀(約1億年前)に形成されました。変成岩はさらに古く、古生代の可能性があります。

猪苗代湖の湖岸の丘陵地帯には、約1500万年前のウニの化石や海底火山活動により噴出した火山灰からなる岩石があります。当時会津地域は海底にあったことが分かります。

約150万年前に起こった陸上火山による大規模な火砕流により、背炙山(せあぶりやま)や会津布引山(ぬのびきやま)など山頂部の平坦な丘陵が形成されました。

約100万年前には猫魔(ねこま)火山が、それに続いて70万年前には磐梯火山の活動が始まり山体を成長させました。

火山活動

磐梯山は大きく分けて古磐梯火山(紫色)と新磐梯火山(赤色)という新旧二つの時期に形成された火山体から成っています。

(↑「磐梯山ジオパーク」より)

古磐梯火山の山体は、磐梯火山の最初の活動で形成されたと考えられますが、その年代はおよそ70万年前です。赤埴山、櫛ヶ峰がその名残りです。赤埴山を造っている岩体は、下部は厚い溶岩が発達し、上部はスコリアや火山弾を含む火山灰層で覆われています。これら赤埴山の火山噴出物の年代は20万~40万年前とされています。猪苗代中央エリアは、赤埴山の山麓部に位置しています。

古磐梯火山が約4~5万年前に噴火により大規模な山体崩壊を起こした後、その爆裂カルデラ内にマグマが噴出し、現在の主峰である大磐梯と小磐梯(推定標高1750m)を中心とする山体(新磐梯火山)が誕生しました。この時の噴火は、後の1888年の崩壊の2倍から3倍の規模で、1980年のセント・ヘレンズ山の崩壊と同等規模と推定されています。

(↑南西側からの磐梯山 桃色線;新しい大磐梯の山容 オレンジ色線;崩壊壁 「休暇村 裏磐梯」ブログより編集)

約5万年前、崩壊壁内部に新たに成層火山が成長してカルデラをほとんど埋め、大磐梯火山体小磐梯火山体が形成されました。この時の山体崩壊は大きな規模で、岩なだれは会津盆地内の会津若松市河東町まで到達しました。

磐梯火山南西麓エリア南部には、お椀を伏せたような丸い形をした丘陵がたくさん見られ、それは「流れ山」と呼ばれています。猪苗代湖唯一の島である南麓の翁島は、その時生じた流れ山の一つです。

9万年前頃の翁島火砕流堆積物と4万年前頃の頭無火砕流堆積物によって、それ以前の猪苗代盆地の河川が堰止められて水位が上がり古猪苗代湖が出現しました。

 

約2.5万年前以降にはマグマ噴火は記録されておらず、水蒸気噴火だけが起きていました。堆積物として記録が残る水蒸気噴火は806年噴火や1888年噴火も含めて、最近5000年間で4回発生しており、その発生間隔は1100~1700年です。また山体崩壊は、1888年の他、約2500年前に赤埴山と櫛ケ峰の間の琵琶沢方面でも発生しています。

現在も沼ノ平火口内と1888年の火口壁と数か所で小規模な噴気活動は継続しています。

 

1888年(明治21年)7月15日の「磐梯式」大噴火

噴火当時は、まだ報道の手段として錦絵や版画が用いられていました。

(↑水色の線;今は消滅した小磐梯の山体「休暇村 裏磐梯」ブログより編集)

(↑北側からの磐梯山)

1888年(明治21年)のこの磐梯山の噴火は水蒸気爆発による山体崩壊です。これにより小磐梯(約1750m)が崩壊し、現在見られる崩壊カルデラ壁が北方に大きく口を開け火山の内部を見せています。かつてはここに小磐梯山があったのです。岩なだれが川を堰止め、裏磐梯と呼ばれる一帯が出現しそれによって五色沼や檜原(ひばら)湖、秋元湖、小野川湖など300余りの湖沼群ができました。当時の爆発による被害は、発生した爆風と岩屑なだれにより北麓の集落(5村11集落)が埋没する被害を出し、477人の死者を出しました。火山灰などの被覆面積100㎢に及んだといわれています。

熱い溶岩流に覆われたわけではないので植生の回復は意外に早かった。

1888年(明治21年)の噴火は「磐梯式」との世界的火山学上の噴火形式名称が付けられました。

噴火の経過(Wikipediaより)

·1888年(明治21年)、噴火前の6月末頃から地鳴りなどの前兆現象があったが、当時は噴火との関連性の認識がなく、対処も行われなかった。

·7月15日、噴火当日の午前7時頃地震が発生し、地震はその後も続いた。

·7時45分頃 小規模な噴火が始まる。住民証言、スケッチ、写真から水蒸気爆発を生じた地点は、小磐梯山頂西麓と銅沼付近であった。

·最初の爆発から15~20回程度の爆発の後、小磐梯山北側の水平方向への爆発的噴火で大規模な山体崩壊が発生した。この山体崩壊により長瀬川とその支流が堰止められ、土石流や火山泥流が下流域に被害を与えている。この止めにより檜原湖、小野川湖、秋元湖、五色沼をはじめ、大小さまざまな湖沼が形成された。裏磐梯の景観は、この時に形成された。また、かつての会津藩の財政を支えていた檜原金銀山の史跡も湖底に没した。

·主な活動は、2~3時間で終了した。

 

 

 

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次回は、第4回「恐山」

 

 

(担当 G)

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