『東北の地質的景観』 第2回 象潟 | 奈良の鹿たち

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『東北の地質的景観』 

第2回

象潟(きさかた)

 

 

象潟は、秋田県にかほ市象潟地域の地形です。現在は陸地ですが、かつては象潟湖に島々が浮かぶ風光明媚な景勝地でした。

 

<象潟の変遷>

紀元前466年(縄文時代)

鳥海山の大規模山体崩壊。山体崩壊による土砂流出は、白雪川流域を下って日本海に達しました。大規模な流れ山をつくりました。

その後

日本海からの波が象潟の土砂を侵食し入り江が生じました。島々(流れ山)は侵食されることなくそのまま残りました。

その後

島々(流れ山)を囲うように砂州が発達して潟湖(せきこ)(湾口に発達した砂州によって外海と切り離されてできた湖。ラグーンlagoon)となりました。島々には木々が生い茂り、風光明媚な象潟の景観が形成されました。

その後

次第に流入河川がもたらす土砂の堆積や湿性遷移によって、元々浅い水深が更に浅くなり、最後は陸地化していく運命にありました。

1804年(江戸時代)

象潟地震に伴う地盤隆起によって象潟湖は消滅しました。湖域で恒常的に干上がってしまった部分では、耕地へと変えられていきました。干上がった部分に存在していた島々は、切り崩されて無くなっていきました。

 

<風光明媚な象潟の成り立ち>

(↑鳥海山と象潟)

象潟の形成は、およそ2500年前の鳥海山の山体崩壊から始まりました。それによって岩屑なだれが日本海に流入しました。いわゆる流れ山地形です。鳥海山の頂上から海岸線まで直線で結ぶとわずか16 kmです。鳥海山頂が崩れ、約60億tの岩石や土砂が海に流れ込み、今の海岸線をつくりました。この現象を岩なだれといいます。

岩なだれによって森の木々が地中に埋もれ多数の埋れ木が生じました。鳥海山の山体崩壊の年代については、埋もれ木の年輪年代測定の結果から、今からおよそ2500年前(紀元前466年)と判明しました。その頃は縄文時代晩期ですが、旧象潟町の遺跡分布を見ると潟より南側に縄文時代の遺跡はありますが、それより北側の岩なだれが流れ込んだ地域には全くその時代の遺跡がありません。

その後、日本海からの波が象潟の土砂を侵食し入り江が生じました。溶岩の岩塊でできた島々(流れ山)は侵食されることなくそのまま残りました。

その後、島々を囲うように土砂が河口付近に堆積してできた砂州(さす)によって日本海と隔てられ、東西約1㎞、南北約2㎞の浅い汽水域が広がる潟湖(せきこ)となりました。

流れ山は潟湖に浮かぶ島となり、松などの木々に覆われて九十九島(くじゅうくしま)と呼ばれ、風光明媚な象潟の景観が形成されました。

『古今和歌集』や『新古今和歌集』などに当地を詠んだ歌が収録されています。古代・中世には能因・西行といった文化人が象潟を訪れました。近世には能因・西行を偲んで、松尾芭蕉ら俳人が多数、象潟を訪れました。象潟では、当地で船頭を雇って船で漕ぎ出して遊覧し、いずれかの島に上陸して、名産のシジミを肴に酒を飲みながら和歌や俳句を詠むのが、風流な遊びとみなされていました。

 松尾芭蕉の句:「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」

 

象潟海岸の唐戸石(からといし)は、九十九島をつくった山体崩壊で流れてきた巨岩のひとつです。唐戸石は鳥海山の山体崩壊によって山頂付近から大量に流れてきた岩石の一つです。象潟海岸にたくさんある岩の中でも、ひときわ目立った大岩で高さ4.3m、幅5.0mあります。かつては海中にあった岩ですが、

1804年(江戸時代)7月の象潟地震で、象潟一帯の地盤が隆起したことにより、陸上にその姿をあらわしました。岩の上部には海中にあった頃にできた波の侵食跡が残っています。

(↑唐戸石)

 

<象潟湖の陸地化の進行>

潟湖について、地理学的・植生学的には、流入河川がもたらす土砂の堆積や湿性遷移によって、元々浅い水深が更に浅くなり、最後は陸地化して消滅するというのが定説ですが、象潟湖もその定説通りでした。

江戸時代中頃の18世紀後半には文人たちが象潟を訪れ、記録を残していますが、次第に象潟の景観が崩壊していく様子が窺えます。

象潟湖は、地震に伴う地盤隆起によって完全に消滅しますが、それ以前から湖の陸地化の進行によって、その風光明媚な景観は消滅の危機に瀕していました。 湖域で恒常的に干上がってしまった部分では、田畑耕地へと変えられていきました。流れ山の島々は、切り崩されて消滅していきました。

●1689年(元禄2年)松尾芭蕉が訪れたころは、松島と並び称される名勝を眺めることができました。

●1772年(安永元年)に南画家の中山高陽が象潟を訪れ、自著『奥游日録』で「象渚は閑雅なるは天下無対と思はる」と評しました。他方で象潟湖の陸地化が進んでいたことにも言及しており、「(多くは)田となりて島も崩れたりと見ゆ」「今の気色にては、三、四百年も経たらば、入り潮もなくなりて、この潟は埋れ果てなん」とも著しています。

●1784年(天明4年)に旅行家の菅江真澄が象潟を訪れ、自著『あきたのかりね』に、文章と絵図で当時の景観を記録しました。「潟のへたは田面畑」と著すなど象潟湖の周囲が耕地化されていたことと、海からの波によって砂が運ばれ、湖が浅くなってきていることを記録しています。

●1788年(天明8年)に旅行家の古川古松軒が象潟を訪れ、湖面に草が生い茂るようになってしまっていたという。自著『東遊雑記』に、象潟は景勝地として名高いので足を運んだにもかかわらず、みすぼらしい景観で、期待を裏切られて落胆したと、象潟を酷評しています。「北の方には民家の墓所にて見苦しく、東南の方には藁ぐろなどいへるものを並べ、干潟は無名の草茂り、枯木・破竹など打ちりて、奇麗なる所は稀なり」と記録しています。古川の記録から、18世紀後半に象潟湖は、湖面に草が生い茂るようになってしまったことが分かります。

●1802年(享和2年)に、伊能忠敬一行が象潟を訪れ、当地を測量しました。伊能図は象潟地震で消滅する直前の象潟湖の姿を記録しています。

 

<象潟地震による象潟湖の消滅>

●1804年7月10日(文化元年6月4日)の夜四ツ時(午後10時頃)に、出羽国由利郡と庄内地方を中心とするマグニチュード7と推定される巨大地震、象潟地震が発生した。象潟地震が起こり、象潟は一夜にして約2~5m隆起し、水深の浅かった象潟湖は、湖水が流出し完全に干上がり消滅してしまった。潟湖の秋田県内では倒壊家屋5000戸以上、死者500人以上という大きな被害が出ました。地震の後、津波も襲来した。

江戸時代の名大関 雷電爲右エ門は、江戸時代の力士としては高い教養の持ち主で日記を著しており、象潟地震の惨状を日記に記録した。雷電は地震の2ヶ月後に象潟を訪れており、その時の様子を自著『雷電日記』に記録している。

(現代語訳)

「文化元年8月5日、由利本荘市では、壁は壊れ、家は潰れ、石の地蔵は壊れ、石塔は倒れ、象潟では、家は皆ひじゃけ、寺の杉木は地下へ入り込んでいた。以前来た時は、干潮時でも足のひざのあたりまで水があり、満潮時は首までも水があった。その景色は、九十九島といわれていた。大地震からは、地面が上昇して陸地となった。以前は舟が留まっていた湊があった。ここも、陸地となってしまった。

(聞き書きとして)地面が割れて、そこから大量の水が湧き出した。年寄、子供たちは大変難渋していた。多くの馬や牛が死んだ。酒田までの浜通りは、道がほとんどなかった。酒田では、蔵が三千余り損害を受けた。また町の中央が地割れし、北側が三尺ほど高くなったということだ。長鳥山(鳥海山)は、その夜、峰焼け出し、山が崩れ、たくさんの土砂が流れ下ったということだ。」

 

(↑現在の象潟)

1934(昭和9)年1月22日、水田に点在する島々は「象潟」という名称で国の天然記念物に指定されました。その指定説明は次の通りです。

――秋田県由利郡の日本海に臨める西部一帯の地は、かつて鳥海火山より噴出したる火山泥流によりておおわれたるが、その泥流の南端に当たれる象潟町に属する南北5km、東西1.5kmの地域は、嘉祥年間、土地陥落のため海水の浸す所となり、泥流中の「流れ山」は大小数十の島嶼(とうしょ)となりて、松樹その上に茂り、宛然(えんぜん)松島の景に髣髴(ほうふつ)し、八十八島九十九潟として名世に宣伝せられたり。 然るに、文化元年6月、出羽大地震に際してその地域再び隆起して陸地となり、往古の潟は化して稲田となり、風景一変したれども、古(いにしえ)の島嶼は今なお稲田中に大小六十有五の松丘となりて点在し、地変以前の名残を留む。 稲田下の泥土中には今なお蚶貝(さきがい)(象潟の地名は蚶潟より転訛(てんか)したるものなり)を始として数多くの貝殻を埋存し、そのかつて浅海底たりしを證す。火山および地震によると土地の隆起および陥没を示せる自然記録として興味あり、かつ重要なるものなり――

 

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次回は 第3回「磐梯山」

 

 

(担当 G)

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