『進化論』 第4回 ダーウィン以後の進化論 | 奈良の鹿たち

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『進化論』

第4回

ダーウィン以後の進化論

 

(突然変異のバラ)

 

進化論は、なにもダーウィンで完成したわけではありません。それどころか、ダーウィン以後には、彼の理論に対する批判や否定があらわれました。

 

●メンデルの遺伝法則

メンデルの遺伝法則とは、メンデルがエンドウの交配実験から明らかにした遺伝の法則。対になる形質のものを交配すると、雑種第一代では優性形質が顕在して劣性形質が潜在するという「優劣の法則」、雑種第二代では優性・劣性の形質をもつものの割合が3対1に分離して現れるという「分離の法則」、異なる形質が二つ以上あってもそれぞれ独立に遺伝するという「独立の法則」の三つから成ります。

 

環境に有利な変異が蓄積されて進化に到るとするダーウィン進化論の不備は、遺伝の構造がわかっていないということでした。ダーウィンの成すことがかなわなかった遺伝法則の一般化に成功したのが、グレゴール・ヨハン・メンデル(George Lohann Mendel)です。

(↑メンデル)

メンデルの遺伝子に関する説では、遺伝子は親の生活とは何の関係もなく全く変化せずに子孫に受け渡されるため、進化を否定する理論と考えられました。

メンデルはチェコの修道院の司祭でした。エンドウマメを使っての研究は、1853年より開始されました。 その後、1868年まで続けたといわれています。研究発表は1865年に行われましたが、 ほとんど反響らしいものはなく、彼の論文は誰にも理解されませんでした。ダーウィンが喉から手が出るほど欲しがっていた遺伝の法則を、 田舎の修道僧が発見していたのでした。 研究内容からみれば、同時代に生き強く引き合ってよいようなものでしたが、ダーウィンに自身の研究成果を伝えようとはしませんでした。進化論によって、教会を中心とする勢力から批難を受けていたダーウィンとは、 修道僧メンデルは、近づきがたい人物だったのかもしれません。
その後、メンデルは1968年に修道院長となり、教会の仕事が多忙となったため、ついには継続を断念しました。「今に私の時代がきっと来る」という言葉を残して1884年に亡くなりました。メンデルの法則が再発見されたのは、亡くなって約115年後の1900年になって、ド・フリース、チェルマク、コレンスの3人によって、メンデルの法則が再発見され、「メンデルの3つの法則」にまとめられて広い支持を得ました。

 

ハックスリー

(↑ハックスリー)

イギリスのハックスリー(Thomas Henry Huxley)は、ダーウィンよりも一歩進んで人類の起源まで論じ、人間もまた下等動物から進化したものであることを明らかにしました。その結論は、「人間とゴリラ、チンパンジーと下等猿との間の構造的差異は、ゴリラと下等猿との間のそれよりも少ない」という有名な言葉に示されています。ただ、現象の奥には非人格的な不可知者が存在するとして、近代的合理主義には限界がありました。

少なくとも、進化論が論理的に負けなかったことで、進化論容認のムードが一気に高まっていきました。そして、進化論は、まもなく一般的支持を得るに至りました。

 

●ワイスマンのネオ・ダーウィニズム

(↑ワイスマン)

ドイツの動物学者ワイスマン(ヴァイスマン)(August Weismann)は、22代にわたり1600匹のマウスの尾を切ったが、生まれたマウスの尾は切れていなかった、という実験結果をもって獲得形質が遺伝しないとしました。

1883年 ワイスマンは、この実験によって多細胞生物の体細胞と生殖細胞(精子や卵子)は独立していて、体細胞はその個体一代だけで滅びてしまい遺伝には関係しない。さらに、生殖細胞に含まれる生殖質のみが世代から世代へと継続すると考えました。

これを「生殖質説」といいます。生殖質というのは、ワイスマンの独創的な考えでした。

彼は生物の全ての特徴が、自然淘汰(選択)によって形作られるという自然淘汰万能の考えを主張しました。

そうして自説をネオ(新)ダーウィニズム(Neo-Darwinism)と名付けました。

このワイスマンの実験は、獲得形質の遺伝がラマルクの用不用の法則に基づいていることを考えると、尾はマウスにとって不用なものではなく、かつマウスにとって受動的に切り取られることが、その習性にどのような影響があるかを考慮していないということで正しくないとされています。

 

●ヨハンセンの純系説

(↑W・ヨハンセン)

デンマークの植物学者のW・ヨハンセン(Wilhelm Ludvig Johannsen)は、自殖性のインゲンで、自家受粉で遺伝の研究を行い、重い豆と軽い豆のグループを作り、両グループの子に実った豆の重さを調べ、差のないこと示しました。

そして、集団がいくつかの混合であるときは選択(淘汰)が有効であり、純系内では効果がないという「純系説」を提唱しました〈1903年〉。すなわち、生物の集団が純系になってしまうと、ダーウィンの自然淘汰説が成立しなくなるという衝撃的な説でした。

現在の視点では、豆の重さの違いは環境によるもので、環境の影響による差は次代には伝えられないと考えられています。

 

●ド・フリースの突然変異説

ダーウィンの理論は、進化を促すような生物の形質の差、変化がどのようにして起こるかについては、全く説明されていませんでした。

この欠点を補強したのが、オランダの植物学者ド・フリース(Hugo Marie de Vries)です。

(↑ド・フリース)

突然変異説は、生物の種類の中で不連続的に異なった形質のものが突然に出現して、それが次世代に遺伝するというものです。

ド・フリースは、12年間にわたるオオマツヨイグサの形質の観察から、親とは全く違う突然変異体が生じることと、突然変異体の形質が次世代に伝わることを発見しました。

結果を1901年『突然変異論』(Die Mutationstheorie) として出版しました。

このことから、進化が起こるのは、ダーウィンの自然淘汰による微小な変異の蓄積ではなく、突発的に起こる飛躍的遺伝子の変異のためだとしました。

ド・フリースの結論は次のようなものでした。

①新しい突然変異種は中間の段階を経ずに突然出現して、ただちに安定性を獲得するもので、自然淘汰の結果、少しずつ進化したものではない。

②突然変異はすべての方向に正起する。

③突然変異種は自然淘汰によって、環境に適応したものは残り、そうでないものは死滅する。

 

はじめはその原因は不明でしたが、その後の研究によって単純に遺伝子に変異が生じた結果ではなく、遺伝情報の変化が突然変異をもたらすことが分かりました。

 

 

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次回は 第5回「現代の進化論」

 

 

 (担当B) 

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