『進化論』第3回 ダーウィン以前の進化論 | 奈良の鹿たち

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『進化論』

第3回

ダーウィン以前の進化論

 

 

進化論は、なにもダーウィンが始めたわけではありません。それどころか、ダーウィン以前には、幾多あまたの進化に関する説が出ていて、彼自身、その影響のお陰で論理を確立できました。

 

マルサス『人口論』

ダーウィンは、淘汰ということを考えつきましたが、それは育種家による人為的淘汰におけるものでした。 彼の中では「自然界で種の変化が、どのようにして起こるか? 生物にどのようにはたらくか?」が謎でした。

この謎の解明にヒントを与えたのが、イギリスの経済学者トーマス・マルサス (Thomas Robert Malthus)の『人口論』(1798年)でした。

(トーマス・マルサス)

ダーウィンは、マルサスの「限定を受けない限り、人口は幾何学級数的に増加する傾向にある」という趣旨に目を見開かされました。

すなわち、「生きるのに都合の良い変化を受けた個体は、そういう特徴を持たない個体よりも繁栄するだろうし、また、そういう有利な変異を持つ動物群は栄え、そうでない動物群は衰退する」。

これがダーウィンの「自然淘汰説」の芽生えといえるものでした。

 

ラマルク『動物哲学』

フランスの博物学者ビュフォン(Georges Buffon)は、1753年に著した『博物誌』で、いわゆる「種」は原型から分離し、絶滅も変化も環境の変化に起因しているとしました。

18世紀後半から、自然界の事物は、創造されたのではなく、自然の法則に従って変化するという論理的進化論に向かっていました。宗教的概念からの離脱でした。

 

この傾向に沿って体系化された進化論の創始者が、フランスの博物学者ジャン=バティスト・ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Lamarck)でした。

( J・B・ラマルク)

彼の著した『動物哲学』(1809年)で唱えられている進化論の基本は、「生物は元来、次第に複雑化していく内的傾向をもっている」というものでした。

 

ラマルクは、2つの法則をまとめている。

1. 発達の限界を超えていない動物であれば、如何なるものでも、頻繁かつ持続的に使用する器官は、次第に強壮に、より発達し、より大きくなり、その力はその器官を使用した時間の比率による。これに対して、いかなる器官でも、恒常的な不使用は、僅かずつ弱々しくなり、良くなくなり、次第にその機能上の能力がなくなって、時には消失する場合もある。(用不用説

生物にとって適切な形質が進化するという意味では適応説と考えてよい。

2. それぞれの個体で、自然に獲得したものや失ったものの全ては、それがその品種が長い間置かれていた環境の影響によるものであっても、そしてそこから生じた特定器官の優先的な使用や恒常的な不使用の影響によるものであっても、獲得された形質が両性に共通であるか、少なくとも子供を作る個体に共通ならば、それらは、その個体の生殖による新しい個体に保持される。そしてある個体が獲得した形質は、次第に同種の他の個体にも共有される。(獲得形質の遺伝

 

ラマルクは、そのような世代の継承を、前進的なものであると見なし、それにより、単純な生物がより複雑で、ある意味で完全なものへと、時間をかけて(彼のいう仕組みによって)変化するのであると考えました。(前進的発達論) 彼はこのように目的論的(目的に方向を定めた)過程を、生物が進化によって完全なものに成る間に経ると信じていました。

 

当時、ラマルクが認められなかったのは、「用不要説」という獲得形質の遺伝を認めたからではなく、進化そのものが人々に受け入れられなかったためでした。

当時はまだまだキリスト教の創造説が主流でした。当時の科学界の大御所フランスのジョルジュ・キュヴィエは、生命の発展の歴史を度重なる天変地異による生物相の入れ替えと見て、世界はたった一度の大異変によって創成されたという「天変地異説」を唱えました。その支持者たちはキュビエの激変説と聖書の洪水のエピソードを結びつけようとしました。

こうしたキュヴィエたちは、反創造説のラマルクを激しく批判しました。宗教界と学界から非難され、ラマルク自身は科学者としては不遇な立場であり続けました。ラマルクは、化石動物から現在の動物が進化したと考えたのに対して、キュヴィエはそれらを絶滅したものだと考えたのでした。

キュヴィエは、進化というものを否定して種の普遍性を主張しました。

 

ライエル『地質学原理』

(チャールズ ライエル)

生物の進化を考えたダーウィンに、直接の動機となる理念・知識を与えたものは、イギリスの地質学者のチャールズ・ライエル(Charles Lyell)の『地質学原理』(1830年~1833年)でした。ダーウィンは、この本を携えてビーグル号の航海に出ました。航海中は、この本をむさぼり読んだといわれています。

ライエルは、「実際の地球の地層は、現在観察されているような穏やかな変化が非常に長い時間積み重なって起きた」という「斉一説」というものを考えました。ライエルは進化には反対しましたが、彼の言う膨大な地球の年齢という概念は、ダーウィン以降の進化思想家に強く影響しました。

現在では当たり前のことであるが、「長い地球時間」という概念は、当時では革新的でした。

この説は、キュビエの「天変地異説」に異を唱えるものでした。

 

 

 

 

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次回は 第4回「ダーウィン以後の進化論」

 

 

 (担当B) 

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