『進化論』
第2回
ダーウィンの進化論
ダーウィン
進化論(theory of evolution)は、イギリスの博物学者チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin)が、1859年に『種の起源』(On the Origin of Species)を著してから社会に一般化しました。
ダーウィンの進化論とは、「自然選択説(natural selection)(自然淘汰説)」と「適者生存(survival of the fittest)」です。
●ダーウィンの自然選択説
・生物は多くの子を産む。
・生まれてくるこの間には様々な変異がある。
・生き残り成長する個体はわずかである。
・生き残る個体はどの様にして決まるのだろうか。
・生まれた個体が多いため限られた餌や空間などを巡って、競争が生じる。これを「生存競争」と呼ぶ。
・この競争に生き残る個体は他の個体より有利な変異を持つ個体である可能性が高い。ここで言う有利な変異とは、より環境に適応した変異と考えられる。
自然選択(淘汰)説とは、ある集団にいる個体のうち、少しでも有利な形質を持つ個体が生き残り(適者生存)、子孫を多く残すことによって、生物は進化するという説です。
自然選択は温度や降水量、食物や捕食者の存在などの選択圧によって引き起こされます。また、ある生物の集団が世代を重ねるごとに、環境に対応した「形質(次世代に伝わる外に現れる性質のこと)」を持つ集団になることを「適応進化」と呼びます。
この適者生存の前提になるのが、生存競争です。生存競争は、生物と生物が壮絶な闘争をしたあげく、それに勝利したものだけが生き残るという狭い状況のものだけではなく、気温や植物相の変化を含む環境の変化に対しても、それに適応しようとして努力することも含みます。
重要なことは「獲得形質」は遺伝しないということです。「獲得形質」とは遺伝ではなく環境の変化や教育によって生まれてから変化した形質です。
ダーウィンはマルサスの「人口論」を読んでいました。「人口論」には、「人口は加速度的に増加するが食料は同じ率では増加しない。したがって人は食料を巡って争うことになる。」と書かれていました。
これがダ-ウィンに決定的なヒントを与えました。 多くの生物は多産であるが、そのうち育つものはわずかでしかない。 生き残るものと死んでしまうものはどうやって決まるのだろうか? 運だけで決まるのだろうか? そうではない、生き残りやすい個体と死んでしまいやすい個体があるはずである。 そして、生まれてくる子の間には少しずつ変異がある。 より環境にあった変異を持つ個体のほうが生き残りやすいはずである。次の代では環境にあった変異を持つもの同士が交雑する。 このようなことが代々繰り返され生物は次第に環境に合うように変化する。 これが進化である。ダーウィンは、環境に合うものが生き残るという「自然選択(淘汰)」を考えました。
それでは、種が進化して別の種になる原動力はなにか? その仕組みはどうなっているか?
ダーウィンはこう考えました。
「同じ種に属する生物でも、それぞれ形態が微妙に異なっている。これは人間を例にとればよくわかる。それぞれの顔は一様ではないし、寒さ・暑さの環境に対する強さ・弱さもそれぞれ異なる。つまり、個体差(個体変異)があるということだ。一方、生物は、種を維持・保存するために、過剰な繁殖を行う。すると当然、そこには生存競争が引き起こされ、余剰部分が淘汰される。生き残れるのは、他に比べて生き残るのに有利な特徴(個体差・個体変異)を備えている個体だ。生死を分けるのは、この差異なのではないか。」
ダーウィンは、この微細な差異(個体差)は種の中に広がり、世代ごとにそれが繰り返され蓄積して、より環境に適した大きな変異となり新種の誕生につながっていくと考えました。
当時は DNA や遺伝の仕組みについては知られていなかったので、変異の原因や遺伝についてはうまく説明できませんでした。
変異それ自体には進化の方向性を決める力が内在しないとしていました。
進化を進歩とは違うものだとし、特定の方向性がない偶然の変異による機械論的なものだとしていました。
「自然は跳躍しない」という言葉で、進化は漸進的であると主張しました。進化は小さな遺伝的変異の蓄積によって起きる。その結果として、体節数の変化のような大きな形態的変化が起きる可能性はあるが、目や脳などが一世代でできることはない。一つあるいは少数の祖先型生物から全生物が誕生した。」そして一つの種が二つに分かれる過程を種分化と呼びましたが、種分化のメカニズムに関しては深く追求しませんでした。
ダーウィンは、進化の概念を多くの観察例や実験による傍証などの実証的成果によって、進化論を仮説の段階から理論にまで高めたのでした。
キリンの首はなぜ長くなったか
キリンは首を伸ばして餌をとっていたから首が長くなったのでも、さらに首が長くなった親の子だから首が長いのではない。
ダーウィンの自然選択説では次のように考えました。
キリンの子にはやや首が長いものとやや首が短いものがいる。 やや首が長いもののほうが生き残る確率が高かった。そのため、次の代は首がやや長いものどうしの間に生まれる子が増える。このようなことが繰り返されてキリンの首は長くなったのである。
この自然選択(淘汰)が起こるまでの過程を、現代の水準で説明すると次のようになります。
1. 個体間の形質に変異が生じる
同じ種の中でも個体間には様々な形質がある。実は、この違いは「突然変異」によるものなのだ。生物は子孫をつくる時、親の遺伝子がコピーされて、それが子孫に引き継がれるだが、そのコピーで時々わずかなミスが生じてしまう。このミスが「突然変異」に当たる。これにより、同じ種でも少しずつ形質が異なってくる。
2. 形質が遺伝する
突然変異した遺伝子の中には、次の世代に引き継がれるものがあり、この引き継ぐことを「遺伝する」と言う。進化が起こるには、遺伝子で決まる形質が世代を経て伝えられる必要がある。
3. 生存や生殖に有利な形質が生き残る
遺伝した変異の中には、子孫を多く残すことや生存しやすいものがあり、それにより個体間で差が生じる。生物は自然環境によって、より生存や生殖に有利な個体が選ばれたように他個体との生存競争に勝ち生き残るのである。これが「自然選択(淘汰)」だ。
生物の進化を考えたダーウィンに、直接の動機となる理念・知識を与えたものは、ライエルの『地質学原理』でした。ダーウィンは、この本を携えてビーグル号の航海に出ました。航海中は、この本をむさぼり読んだといいます。ライエルは、「実際の地球の地層は、現在観察されているような穏やかな変化が非常に長い時間積み重なって起きた」と考えました。この「長い時間積み重なって」という考え方は、当時では新鮮な発想でした。当時の時間の観念は、数千年が地球時間としてとらえられていました。
ビーグル号に乗り南米を探検、生物は進化することに気づきました。
ダーウィンの自然選択(淘汰)説は、ビーグル号の航海中に着想したことはよく知られています。
ビーグル号とは、1831年から1836年までの約5年間、南アメリカ沿岸の地理測量を目的として世界周航をしたイギリスの軍艦です。
1831年12月にイギリスのダヴェンポートを出港し、大西洋を南下、南米各地に寄港しながら、1834年にマゼラン海峡を通過、太平洋に出て北上し、ガラバゴス諸島、タヒチ、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカを経て、1836年10月にイギリスのファルマスに帰港しました。ダーウィンがこの船に乗り込んだのは22歳の時で、彼はのちにこの航海について「私の全生涯の道を決定した」と述べています。それは、「種は不変ではなく、変わりうるものだ」ということを確信した数々の証拠でした。寄港地の各所を踏破し、地層・化石を調べ、様々な動植物を熱心に観察することで得られたものでした。
(↑ガラバゴス諸島)
とりわけ、絶海の孤島ガラバゴス諸島での観察はダーウィンを驚嘆させました。
ダーウィンは、ガラパゴス諸島で島ごとにフィンチやゾウガメが少しずつ異なっていることを知りました。
「ここの生物は、明らかにアメリカ大陸の刻印を帯びている。ここの生活条件や島の地理的性質、島の高さ、気候条件、生物相などは、南米の海岸と似ている点は何一つないが、ガラバゴス諸島の生物は、アメリカの性別に縁がある・・・・。この事実は、生物が別々に創造されたというありきたりの考えでは説明できないことだ・・・・。アメリカ大陸からガラバゴスへ生物が移住してきたことは明らかである。これらの生物は変化しやすいのだろう」
フィンチの分化
ガラパゴス諸島とココ島にはダーウィンフィンチ類と総称される小形鳥類がいました。それらの祖先は共通しているが、種間でくちばしの大きさや形が少しずつ異なっており、それぞれ異なる食物を食べていました。これは、食料が選択圧として強く作用したと考えられました。
「ビーグル号航海記」には、4種のフィンチ(ひわ)の図が載せられています。地上に棲み種子を食べる2種。樹上に棲み虫を食べる2種。この4種は、嘴(くちばし)の形が異なっていました。後で分かったことですが、これらのフィンチは、もとはアメリカから渡って来た1種が、その後に枝分かれしたものだったのです。
(↑ガラバゴス諸島に棲むフィンチのくちばし(左はダーウィンのイラスト))
『種の起源』にも、ガラベゴス諸島でのことが記されています。
「移住生物が初めてある島に棲みついたとき、あるいはその後、その島から他の島へ移った時、島によって異なる条件下に置かれる。その移住生物は、違った一組の生物と競争しなければならない。例えば、ある植物は、最もそれの生存に適した島から別の島に行けば、そこは既に少し違った種に占められており、したがって異なる敵と競争することになる。いま、その植物が何らかの方向に変異したとしよう。しかしその変異は、もはやその植物がかつて生えていた島で受けるだろう変異とは違った形のものとなるだろう。すなわち、おそらく自然選択(淘汰)は、島が違えば、違った変異に有利に働くだろう」
●ウォレスからの驚きの手紙
1858年6月のある日、ダーウィンはイギリスの博物学者であり探検家のアルフレッド・ウォレス(Alfred Russel Wallace)から衝撃的な研究論文を受け取りました。論文にはダーウィンが考えていた自然選択による進化論が、「適者生存」という表現などが明確に述べられていました。彼は、自分の考えた新説について、発表前にあこがれのダーウィンの意見を求めたのでした。
ダーウィンは驚いて、自身の自然淘汰説が、ウォレスによって先んじて発表されるのではないかという危惧を抱きました。そこで、ダーウィンは1858年7月ウォレスの同意を得て共同で発表する一方で、進化論の本を急いで書き上げ翌年1858年に『種の起源』として出版しました。それは、その日のうちに初版1250部が売り切れたといわれています。
ダーウィンの名は歴史に残りウォレスは忘れ去られました。最近、ウォレスを正しく評価するべきであるとする意見が強まってきています。「ダーウィンはウォレスの説を盗んだのではないか」という疑惑が出たことは有名です。バックマン 著書の『ダーウィンに消された男』(1980年)によると、ダーウィンとその友人達は、微妙な調整を行いダーウィンの盗作の証拠を消し去ったとしていました。真偽は判らないが、ウォレスがいなかったら『種の起源』は完成しなかった事は間違いないと思われます。
●キリスト教「創造説」とダーウィン「進化論」
(↑「人類は猿から進化した」というダーウィンに対し「ダーウィン、お前もチンパンジーの子孫か」の風刺画)
『種の起源』は当然のことながら、賛否両論を巻き起こしました。時代は、徐々に「科学」が容認されてきていましたが、「生物は神によって個々に創造され、不変である」との創造論も根強く残っていました。確かに進歩的科学者は、創造説など信じていませんでしたが、問題は、創造によらない新種の誕生のしくみについては、その頃、十分な論理的説明は出来ませんでした。
この問題に応えたのが、ダーウィンの自然淘汰説でした。
両者の対決は、1860年イギリスの学術振興会の場で現実のものとなりました。創造説側代表の教会司教と進化論側代表の生物科学者(ハックスリー)の間で、論争が繰り広げられ、結果として進化論側が勝利しました。
ダーウィンの進化理論は多くの批判・反論を受けましたが、多くの支持も得て次第に影響を広げていきました。この影響はその後、自然科学の枠外にまで広がりました。
●ダーウィンの存在意義
1882年4月26日、ロンドンのウェストミンスター教会でチャールズ・ダーウィンの葬儀が行われました。聖職者や保守的な人々によって、進化論は「神を退位させた」として非難された人物の葬儀がウェストミンスター教会で挙行されたことは、教会聖職者たちがダーウィンの進化論を許容したことを示す出来事でした。
宗教に対する科学の勝利のひとつがダーウィンの進化論でした。
(↑チャールズ・ダーウィンの墓(ウェストミンスター教会))
ダーウィンは、宗教と科学について、次のように述べている。
「すべての宗教的理論や体系は、宇宙生成論のような科学の領域に係わる場合には、科学の支配下に置かれるべきであり、宗教が科学を支配しようとする考えは捨て去るべきである。そうでないと悲惨な結果になることが過去において明らかだし、今日でも同じことをするのは愚かなだけである。」
『種の起源』刊行の10年後には、少なくともイギリスの科学界では、生物の進化は常識のものとなっていました。19世紀末から20世紀初頭にかけて、イングランド教会もカトリック教会も、進化論を妥当な説であることを認めるようになりました。
====================
次回は 第3回「ダーウィン以前の進化論」
(担当B)
====================











