『進化論』 第1回 進化論とは | 奈良の鹿たち

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『進化論』

第1回

進化論とは

 

 

 

進化論(theory of evolution)は、イギリスの博物学者チャールズ ダーウィン『種の起源』を著してから、さまざまな角度から総合的に検討されてきました。

近年、生命科学や分子生物学、またコンピュータ技術をはじめとした情報処理技術の進歩や、ヒトゲノムプロジェクトなどの新しい研究成果が続々と報告され、進化というものが高度なレベルで研究されるようになりました。

 

かつては、進化論とは、生物は不変のものではなく長期間かけて次第に変化してきた、という仮説(学説)に基づいて説明されてきました。すなわち、40億年ほど前に誕生した単一の祖先から、現在この地球上に住んでいると推測される数千万種類に及ぶ生物すべてが枝分かれし発達してきた経過や原因を調べる研究である、言われてきました。

現代の進化理論では、「生物の遺伝的形質が世代を経る中で変化していく現象をとらえる学問」だと考えられています。

 

ラマルク「用不用説」(1809年)

近代的な進化論の芽生えは、フランスのラマルクが『動物哲学』(1809年刊)を発表した時に始まりました。生物進化の思想を、ダーウィンの『種の起原』(1859年刊)の50年前に先立って述べた古典的著作です。 その中で唱えた「生物は下等なものから高等なものへと変化してきた」という説は、当時としては、初めてまとまりのある体系的な進化論でした。さらに、「生物には一定方向に進化し続ける」とする定向進化の考え方となって、ラマルキズムと称される進化の仮説へと発展しました。 また、「獲得形質が遺伝する」と推測した仮説「よく使われる器官が発達し、使われない器官は退化するとしました。この「獲得形質が遺伝する」と推測した用不用説を展開しましたが、後々、獲得形質は遺伝しないことが明らかになり、現在では用不用説は否定されました。

しかし、生物進化の概念を初めて体系的に示したとして、進化論の発展に大きく貢献しました。

 

ダーウィン「自然選択(淘汰)説」(1859年)

進化論の先駆けはラマルクといえます。しかし、進化論と言えばダーウィンです。現在の科学的な進化論に火をつけた先達として、ダーウィンがあらわれまし。ダーウィンは、ビーグル号の航海に参加し、5年にわたって太平洋、大西洋、南アフリカ沿岸、ガラバゴス諸島などを訪れ、動植物相の観察や化石の採集、地質の研究などを行いました。

その成果として『種の起源』を著して、自然選択説 :「自然選択による適者生存の原則、すなわち、ある生物集団において、環境によりよく適応してより生存力の高いものが残って繁殖し、それ以外は絶滅することで進化が推進されるという」を発表しました。

ダーウィンの進化論はそれまでの生物学の考え方を一変させ、また宗教界からの攻撃にもよく耐えて後世に伝えられました。 ダーウィンの進化論は、生物は生物自身で原始的な形態から高等なものまで、変化を繰り返していく、というものであり、キリスト教の「生物は神の被造物である」という教えを真っ向から否定することとなりました。

(↑「人類は猿から進化した」というダーウィンに対し「ダーウィン、お前もチンパンジーの子孫か」の風刺画)

 

ド・フリース「突然変異説」(1901年)

しかし、ダーウィンの理論は、進化を促すような生物の形質の差、変化がどのようにして起こるかについては、全く説明されていませんでした。

この欠点を補強したのが、オランダのド.フリースが見出した突然変異説です。

突然変異は、生物の種類の中で不連続的に異なった形質のものが突然に出現して、それが次世代に遺伝する現象です。

ド・フリースは、12年間にわたるオオマツヨイグサの形質の観察から、突然変異体が生じることと、交雑実験から突然変異体の形質が次世代に伝わることを発見しました。このことから、進化が起こるのは、突発的に起こる遺伝子の変異のためだとしました。

 

総合進化説(ネオ(新)ダーウィニズム)(1940年代)

現在、進化論の主流は総合進化説と呼ばれる考え方に移行しています。

この理論は、ダーウィンが進化の要因として唱えた自然選択に加え、1930年代に成立した分子生物学や集団遺伝学を基礎として、生殖隔離による種分化やDNAに生じた突然変異および分子進化の中立説などを総合的に取り入れた進化論です。現代の進化論の主流をなしています。

 

● 中立進化説(1968年)

自然選択説とは、様々な形質の中から生存や生殖に有利な形質が生き残り、不利なものは排除されることで進化するという考え方でした。しかし、中立説では、分子レベルの遺伝子の変異には有利・不利がなく、偶然残ることで進化が起こるというように考えられました。

1968年に木村資生によって、DNAの塩基配列やアミノ酸、タンパク質の変化は生存に有利でも不利でもないものがほとんどであるという中立進化説が発表されました。

この説の登場は、それまでの進化論に大きな影響を与えました。

自然選択(淘汰)による進化は、個体が「生き残りたい!」と思って意識的に行っているわけではなく、様々な遺伝子の変異から、たまたま、その環境での生存に有利な形質が、もしくは中立的な変異が残ったのです。

 

分子生物学(20世紀半ば以降)

1900年代の半ば頃、生物学は新たな転換期を迎えていました。タンパク質やDNAといった、分子のレベルで生物を解き明かそうとする分子生物学の登場です。

生物のもつ遺伝情報がDNAに存在することが突き止められ、1953年にはワトソンとクリックによってDNAの「二重らせん構造」が解明されました。

(↑DNA二重らせん構造)

進化による形質変化はDNAの変化であり、これが進化の原動力であると考えられるようになりました。

コンピュータの進化で、遺伝子の解明が進み、遺伝情報の全体をあらわすゲノム解析が大幅に進歩しました。

 

 

 

 

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次回は 第2回「ダーウィンの進化論」

 

 

 (担当B) 

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