『関東の地質的景観』
第8回
浅間山②
浅間山の活動の歴史
浅間山の活動史は、噴火口の位置と溶岩の性質から、3つに分類されています。
(前回)
1.黒斑期(約13万年~2万6000年前)
2.仏岩期(約2万6000年~約1万3000年前)
(今回)
3.前掛期(約1万3000年前~現在)
3.前掛期(約1万3000年前~現在)
~前掛山(まえかけやま)の形成と釜山の誕生~
広義の浅間火山の最新の活動は前掛火山(狭義の浅間火山)の形成です。
前掛山は、1万3000年前の仏岩火山の噴火直後に火山錐の形成をはじめ,1000年くらいで現在の高度(2568m)にほぼ達したと考えられます。
前掛山火山は,1783年噴火以降この2000年余りの間に、頂火口からは頻繁にブルカノ式噴火が繰り返されていて、現在成長過程にある青年期の火山といえます。
~天仁(てんにん)大噴火~(1108年・天仁元年 平安時代)
天仁元年7月21日になって突然、プリニー式噴火大噴火を起こしました。噴火場所は前掛山で、噴出物の総量1.55DRE=3.875km3、30億トンの噴出物を伴う大噴火。この大噴火は,浅間(前掛)火山の噴火史上最大規模の噴火でした。火山爆発指数(8段階):VEI-5。有名な1783年「天明大噴火」の2倍量のマグマを噴出しました。大量の噴出物が噴き出されたため、前掛山の山頂部が陥没して、くぼみができたと考えられ、その後、火口底には現在の「釜山」(かまやま・2,568m)にあたる低い丘ができました。
噴火後、大量の火砕流が南と北の山麓に分かれて流下しました。この火砕流を「追分火砕流」と呼ばれています。この火砕流は山頂から南北それぞれ12km、裾野約80km2の地域に展開し、厚さ平均8m位の堆積物を生じました。北麓に流下した火砕流は,嬬恋村大笹付近で吾妻川に達し,渓谷を厚く埋め立てました。南麓へ流下した火砕流は,軽井沢町追分から御代田町付近の一帯を覆いつくし,湯川に流れ込んで厚く堆積しました。当時の長野原町北軽井沢から嬬恋村東部,および軽井沢町追分から御代田町にかけては,田畑がことごとく埋まってしまい、完全に荒廃したものと思われます。その後,火山灰の噴出が続くが,再び降下軽石の噴出が生じ,この一連の大噴火は終わりを告げました。
近年、12世紀初めのこの時期の北半球の気温が約1℃低下したことや欧州における暗い月食、数年間の異常気象、大雨や冷夏による作物の不作と飢饉の原因が、浅間山の噴火であった可能性が示唆されました。
~天明大噴火~(1783年・天明3年 江戸時代)
1108年の「天仁大噴火」後,1281年と1427年に噴火の記録が残されていますが,概して静穏だった。その後、4回ほどの噴火経て, 1783年(天明3年)のプリニー式大噴火「天明大噴火」に至ります。
1783年7月6日(新暦)から3日間にわたる「天明大噴火」は日本の火山噴火の災害として最大の出来事でした。この噴火では,プリニー式噴煙柱から軽石を降らせつつ,吾妻(あがつま)火砕流・鬼押出し溶岩流・鎌原(かんばら)岩なだれが発生しました。噴出物総量4.5×108m3、火山爆発指数(8段階):VEI-4でした。
浅間山・鬼押出し溶岩・吾妻火砕流・浅間A軽石流・鎌原火砕流・鎌原村・嬬恋村・吾妻川
<天明大噴火の経緯>
<天明大噴火の被害>
●天明大噴火の溶岩図
この噴火で浅間山から12㎞離れた鎌原(かんばら)集落は、土岩なだれ(鎌原火砕流/岩石なだれ)の直撃を受け、村全体が埋まり、466人が亡くなりました。1979(昭和54)年に村の発掘が行われ、村の小高いところにある観音堂へ続く15段の石段のその下には更に石段が35段埋もれていました。その最下段のところで、背負う人と背負われる人の格好をした遺骨が2体発見されました。調査の結果、背負われた女性は60歳以上、背負う女性は40~50歳で、血縁関係がないことがわかりました。土石なだれから逃れようとお嫁さんがお姑さんを背負って高台にある観音堂を目指したものの、あと少しのところで力尽きてしまったのではないかと推測されています。
熱い泥水は、熱石をまじえて吾妻川にそって流れ下り、天然ダムを形成して河道閉塞を生じました。その天然ダムは決壊して泥流となり、吾妻川下流一帯の人家を押し流し、田畑を埋め本庄・熊谷あたりまで達しました。現在黒豆河原付近にみられるような一面砂礫に覆われた荒廃地を生み出しました。本流となる利根川へと入り込み、現在の前橋市から玉村町あたりまで被害は及びました。最近の発掘では、火山灰は遠く栃木県の鬼怒川から茨城県霞ヶ浦、埼玉県北部にまで降下していることが確認されました。栗橋より上は、旧暦10月まで船が上流に行けなかったといわれています。また、大量に堆積した火山灰は利根川本川に大量の土砂を流出させ、天明3年の水害、天明6年の水害などの二次災害被害を引き起こしました。当時の利根川の本流であった江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられました。
利根川に入った泥流は、犬吠埼(千葉県銚子市)まで達し、太平洋に流れ出ました。
天明大噴火の時の犠牲者は1624人(うち上野国一帯だけで1,400人以上)、流失家屋 1151戸、焼失家屋 51戸、倒壊家屋130戸余りでした。
火砕流の流れたあと、釜山火砕丘の北側にはきわめて大量の火砕物が堆積したために溶結した火砕物が崩れて再流動を始め,前掛火山の北斜面を溶岩として流下りた。これが「鬼押出溶岩流」で、巾2㎞、面積約6.8㎞2、体積0.17㎞3の流れ跡が残っています。
溶岩流は、火口から北へ約5.5㎞で止まり、鬼押出溶岩流の流出を最後に、大噴火も噴煙も次第に収まり、浅間山大噴火は収束に向かったとされています。
天明大噴火による災害はこれだけではありませんでした。ちょうど同じ年に東北地方北部にある岩木山が噴火(4月13日)したばかりか、アイスランドのラガキガルでも大噴火(6月8日)と1783年から2年間噴火を続けたグリムスヴォトン火山の噴火が起き、塵は地球の北半分を覆い世界中に低温化・冷害をもたらしました。
東北地方をはじめ日本各地では、このために作物が採れず、「天明の大飢饉」が起こり、多くの死者や難民が出ました。
近年の噴火活動
浅間(前掛)火山は,1783年ADの大噴火の後,110年ほどの比較的静穏な時期を経て,1889年から1961年までの約70年間は,ほとんど毎年のように爆発的なブルカノ式噴火を繰り返しました。この期間は火口底に溶岩塊が顔をみせており,火口底の深さも200mよりも浅い場合が多く,1912~1913年には,深さがほとんど0になり,溶岩が火口から溢れ出しそうになりました。ブルカノ式噴火は,火道から上昇してきたマグマ柱の頭に相当する溶岩の塊が爆発的に破壊されることによって生じます。ブルカノ式噴火では,火山弾,火山岩塊などの噴石や,火山砂(灰)などが放出され,場合によっては小規模な火砕流も流出します。最近の比較的大きな噴火は,1973年と1982年に起こり,小規模な火砕流も発生しました。1990年代は火口底も下がり,溶岩塊も姿を見せず,比較的静穏のまま今日に至っています。
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(担当P)
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