『関東の地質的景観』第7回 浅間山① | 奈良の鹿たち

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『関東の地質的景観』

第7回

浅間山①

 

 

浅間山の概要

浅間山は、長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある安山岩質の標高2,568mの成層火山。山体は円錐形でカルデラも形成されており、数十万年前から活発な活火山でした。これまでに噴火と山体崩壊を繰り返し、現在の姿となった。その痕跡は、遠く離れた群馬県前橋市の台地上などに厚い堆積物として残っています。現在は静穏な状態が長く続いています。

地図上では「浅間山2,568m」と記されていますが、実際は黒斑山、前掛山、釜山、仏岩溶岩、石尊山、小浅間山などをひとくくりに「浅間山」と呼んでいます。

第一外輪山の黒斑山、第二外輪山の前掛山、釜山を合わせて「浅間山」と呼ぶ場合もあります。

山の構成から見ると、黒斑山・仏岩・前掛山からなる三世代火山です。
現在噴火活動をしているのは、前掛火山である。山頂火口(釜山)からは噴煙が上がり、その周りには複合のカルデラがあり、内側の外輪山の西側に前掛山があります。外側の外輪山には、黒斑山、牙山、剣ヶ峰などがあり、黒斑山の北側のカルデラは崩壊しています。

 

浅間山の地形

 

浅間山写真図

①前掛山(まえかけやま): 2,524m、中央火口丘、釜山火口(現在の火口)がある。

②黒斑山(くろふやま):2,404m、古期成層火山のカルデラ縁。

③仏岩(ほとけいわ)(弥陀ヶ城岩(あみだがじょういわ))火山:浅間山が出来るはるか以前に溶岩が固まってできた岩壁。その後、仏岩火山は崩れて消失したが岩壁は残っている。

④小浅間山(こあさまやま):1,655m、側火山。溶岩ドーム。

⑤離山(はなれやま):1,256m、側火山。溶岩ドーム。

⑥石尊山(せきそんさん):1,667m、側火山。前掛山の南側中腹に位置する溶岩ドーム。

 

 

浅間山の活動の歴史

浅間山の活動史は、噴火口の位置と溶岩の性質から、3つに分類されています。

1.黒斑期(約13万年~2万6000年前)

2.仏岩期(約2万6000年~約1万3000年前)

3.前掛期(約1万3000年前~現在)

●浅間山北斜面溶岩図

●浅間山南斜面溶岩図

 

1.黒斑期(約10万年~2万1000年前)

~黒斑山(くろふやま)の山体崩壊と塚原泥流~
浅間山としての最古の山は、黒斑山(くろふやま)【浅間山写真図①】です。黒斑山は、現在の浅間山の姿の大部分を構成しており、東に開いた馬蹄形カルデラです。しかし、約5万年前のカルデラ形成以前は、高さ2800~2900mの滑らかな円錐状の成層火山でした。

浅間山は、数十万年前から活発な活火山でした。約10万年前以降、黒斑山が成層火山に成長しました。しかし、約8万年前から約7万年前の間と、約4万年前から約3万年前の間は活動が見られず、休止期となっていました。

この馬蹄形カルデラは、約2万2900年前に大規模なプリニー式噴火(噴煙柱を形成する激しい噴火で、噴煙は成層圏まで達し、大量の火山灰や軽石などを放出する。)が起こり、黒斑山全体の半分以上が東側へ崩壊しました。山体崩壊した体積は4 ㎞と推定されています。高さ2800mあった黒斑山は、現在の2400mほどになりました。

高速で流れ下る土砂からなる岩なだれは、まっすぐ東へ進んで白糸の滝付近の平坦な高まりに達したのち、北と南へ分かれて流れ下りました。北へ向かった流れは、流域に「流れ山」をつくったのち南西に向きを変え、佐久市塚原に達しました。この泥流のことを「塚原泥流」と呼んでいます。千曲川がそこで南西に湾曲して流れているのはこの押し出しによるものです。

泥流は、多量の土砂が吾妻川から利根川に流れた後、前橋で関東平野に入りました。この岩なだれは,厚さ十数mの堆積物をそこに残しました。これが「前橋台地」です。南へ向かった流れは、南軽井沢で湯川を堰き止め、そこの平坦地の一部を満たして一時的に大きく浅い湖が生じました。

山体崩壊後、さらに2回のプリニー式噴火がありましたが、約2万1000年前に黒斑期の火山活動は終了しました。

黒斑火山の活動が終了してから間もない2万年前頃、現在の浅間(前掛)火山の山頂から約8kmも離れた軽井沢付近に、離山(はなれやま)火山【浅間山写真図⑤】が形成されました。離山はデイサイト流紋岩質の溶岩ドームからなる単成火山ですが、溶岩ドームの流出に先立って雲場軽石(火砕)流が噴出し、軽井沢町塩沢から南軽井沢の一帯を覆いつくすなど、爆発的な噴火活動をおこないました。

 

2.仏岩期(約2万1000年~1万1000年前)

~仏岩溶岩の堆積物~

仏岩(ほとけいわ)弥陀ヶ城岩(あみだがじょういわ))火山【浅間山写真図③】は、浅間山を南から見ると、前掛山に覆われる形で、その東に膨らみを確認する事ができます。黒斑山の山体崩壊後に活動を開始し、1万3000年前に平原火砕流が流出するまで、1000~2000年おきに大規模な軽石噴火を繰り返しました。最盛期の山体の高度は、海抜2,000mを越えました。粘性に富む厚い溶岩流が繰り返し流出し、緩傾斜の火山体を形成しました。この噴出物を「仏岩溶岩」と呼んでいます。

1万3000年前:爆発的噴火が生じ、仏岩火山の噴火のクライマックスとなりました。浅間火山史上最大規模の噴火であり、大量の降下軽石と火砕流の噴出が起こりました。この噴火によって、カルデラが形成されました。

この時の噴火の噴出物の総量は10.95km3で火山爆発指数(8段階):VEI-。これは、ピナツボ山の1991年の噴火の噴出物の総量(10km3)をも上回り、大規模なものでした。この一連の噴火によって噴出した軽石質火砕流は、「第1小諸火砕(軽石)流」と呼ばれています。

〇 1万1000年前:仏岩火山の最終期の活動は大規模のプリニー式噴火が起こり、総社降下軽石と「第2小諸軽石(火砕)流」が噴出しました。この軽石(火砕)流は、南側山麓では御代田町から小諸市にかけての広い領域を覆いました。御代田町や小諸市は、2000年の間に2回の大規模な軽石流の直撃を受けたことになります。

「仏岩降下軽石」は「白糸の滝」付近で見られ、最大7mの厚さがあります。その下部の火山灰層が不透水層となって地下水を集め「白糸の滝」は湧水しています。

 

~小諸の地盤となった軽石流と田切地形~

1万3000年前に、仏岩溶岩流が終わった後、次の火山活動では二回の火砕流が確認できますが、これを「浅間火山の軽石流」といい、その堆積物を第1小諸火砕流堆積物」といいます。火砕流が流下するたびに、火山灰を空高く舞いあげ、その結果、火山灰層が広い地域に堆積しました。第1小諸火砕流」は、広義の浅間火山で最大規模の火砕流であり、北方では吾妻渓谷を厚く埋積し、また南方では小諸市から御代田町、佐久市にかけての山麓の広い領域を埋めつくしました。草津温泉で70cmの厚さがあることから「草津軽石」あるいは「嬬恋(つまごい)軽石」ともいわれ、草津軽石に伴う火砕流は特に「嬬恋火砕流」といわれます。

草津軽石流は上越の山々を覆い、さらに日本海の海底でも見つかるので、最後の氷期の編年に重要な鍵層となっています。

現在でもこの地域には、火砕流台地特有の箱形谷地形「田切(たぎり)」がよく発達しています。

軽石流の堆積物は固結度もゆるく、縦に割れやすいので、ごく小さな川により垂直に侵食され、両壁を切り崩し谷底を広げていきます。この巨大なミミズの這い跡のような谷地形を「田切地形」といい、小諸では小諸城址懐古園、南城公園、美南ガ丘小学校や平原駅周辺で見ることができます。当時は、この地域一帯は、火砕流で覆われた不毛の台地と化していました。

 

 

 

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次回は 第8回(最終回)「浅間山②」

 

 

(担当P)

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