『九州の地質的景観』第9回 鬼界カルデラ | 奈良の鹿たち

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『九州の地質的景観』 

第9回

<鬼界カルデラ>

 

(薩摩硫黄島)

 

 

〇 概要

薩摩半島から約50km南の大隅海峡にあるにある鬼界カルデラは7300年前に巨大噴火をおこし、海底に水没した世界で最も新しい水没巨大カルデラです。海水をはぎ取ると、北西、南東約25km、北東、南西約15kmの楕円形の鬼界カルデラが顔を出します。

その火山灰(アカホヤ火山灰)は、朝鮮半島をはじめ遠く東北まで降り注ぎ、九州の縄文文化が壊滅的な打撃を受けました。

 

〇 地形

カルデラとは、火山噴火によってできた陥没地形のことです。地下に大量のマグマが溜まり、それが一気に地表に噴き出すと、マグマのあったところが空洞になります。そして、その上の地面が落ち込んで、カルデラができます。通常、カルデラは、火山爆発指数(VEI:0~8段階)が6以上の大規模な噴火で形成されます。

鬼界カルデラのカルデラ谷は400mから650mあり、中央火口丘が瀬をつくっています。中央海底には、単一の火口に由来するものとしては世界最大規模の溶岩ドームがあります。溶岩ドームからは現在も火山性ガスの気泡が噴出しており、成長していることが最近の調査で明らかになってきました。地下にはマグマ溜りが存在すると考えられています。

 

JAMSTEC(ジャムステック:海洋研究開発機構)では、鬼界カルデラは、そのほとんどが水没しているが、その海域にはかつて富士山を小ぶりにしたような成層火山があり、それを吹き飛ばすほどの巨大なカルデラ噴火が起きたという仮説を立てています。そして、成層火山をつくっていた、硬い安山岩の一部は陥没できずに残り、カルデラ壁になったと考えています。

 

カルデラは、約7300年前の噴火で形成された内側のカルデラと、それ以前に形成された外側のカルデラの二重となっています。海底には多数の海底火山があり起伏に富んだ地形になっています。カルデラの外輪山として竹島、薩摩硫黄島が海面上にあります。薩摩硫黄島は現在も活動しているランクAの活火山で、主峰の硫黄岳からはいつも噴煙が上がっています。硫黄島から南東方向の中心部付近には海底の高まりがあり、後カルデラ火山活動によって形成された中央火口丘と推定されます。このうち1つの浅瀬は海面上にあり、3つの岩礁からなっています。神戸大学などの研究チームが2016年から2017年にかけて行った海底調査では、直径約10km、高さ約600m、体積約40 km3の溶岩ドームを確認しました。

 

〇 噴火

カルデラを形成する噴火はきわめて大規模な噴火で、過去12万年の間に日本列島では16回発生し、数千年に1度の割合でカルデラ噴火が発生する計算になります。鬼界カルデラの形成は縄文時代に発生した噴火で、 日本のカルデラ噴火のなかで最も新しい噴火でした。

鬼界カルデラは、先史時代以前に複数回の超巨大噴火を繰り返してきており、9万5000年前と14万年前にも超巨大噴火が起きたことが分かっています。
そのもっとも新しいものが、約7300年前の大規模カルデラ噴火(VEI火山爆発指数は7)で、過去1万年で世界最大規模の超巨大噴火です。カルデラ形成を伴う大規模火砕流噴火は、高温のマグマと火山灰とガスが渾然一体となり、高速で地表を流走する噴火現象です。


〇 噴出物

堆積物として確認される最初の噴火は、軽石を空高く吹き上げるプリニー式噴火で、噴火口周辺の薩摩硫黄島や竹島では、降下軽石層が5m以上も厚く堆積し大隅半島や薩摩半島でも10~15cmの層厚の軽石層が確認されています。 軽石層は、カルデラから北東方向に分布し、鹿児島県北西部以外の鹿児島県と宮崎県南部を覆い、「幸屋(こうや)降下軽石層」と呼ばれています。プリニー式の軽石噴火の最中に、噴煙柱の一部が崩壊して火砕流が発生していることが確認されています。この火砕流堆積物は、「船倉(ふなくら)火砕流堆積物」と呼ばれ、竹島と薩摩硫黄島に分布するのみです。

そして、プリニー式噴火の後に、カルデラ形成を引き起こした大噴火が発生しました。

この噴火では、海底火山から数百℃、平均層厚が1m以下の「幸屋(こうや)拡散型火砕流」が発生し、時速数百kmのスピードで海上を走り抜け、大隅半島や薩摩半島など南九州地域一帯に到達しました。カルデラ形成に伴って発生する通常の火砕流堆積物は、一般に10mから数100mの平均層厚を示し、平均層厚1mで90kmを流走したことから「拡散型火砕流」と呼ばれています。幸屋火砕流堆積物は、鬼界カルデラ周辺の屋久島、種子島、口永良部島にも流れ、鹿児島南部と同様に薄い堆積物を残しています。

薩摩硫黄島での幸屋火砕流の厚さは、最大10m未満ですが、隣の竹島では最大20m堆積しています。低い標高の地域では、2〜5m程度と比較的厚く堆積し、標高1934mの屋久島の宮之浦岳周辺をはじめ、中央の山岳域では層厚0.5~1mと薄く堆積しています。噴出口と屋久島の間には海域が存在し、噴火当時は縄文海進(海が陸地奥まで侵入)の時期だったので幸屋火砕流は噴火後、海を渡って屋久島に到達し到着後火砕流は、宮之浦岳山頂(1934m)まで駆け上がったことになります。 屋久島の縄文杉は、幸屋火砕流の噴火の後に芽生えたと推定されます。種子島には高い山がありませんが、島の北部を除いた地域で幸屋火砕流堆積物が分布しています。鬼界カルデラから40km離れた九州へも幸屋火砕流は到達し、九州に上陸後も50km以上の距離を流走し続けました。通常、火砕流は重力流として地形的な低所に流れ込むことが多いですが、幸屋火砕流のような拡散型火砕流は、緩やかな地形を覆うように堆積し噴出源から海を越えて、遠く離れても層厚は大きく変化せず薄く広範囲に堆積しました。

 

火砕流堆積後に降下して堆積した火山灰層が、その上に堆積しています。この地層は「アカホヤ」と呼ばれていて、幸屋火砕流と同時に噴出した火山灰のうち、上空に噴き上げられてから地上に降下した火山灰です。火山灰の降下当時は、数mも降り積もったと考えられます。成層圏に達し偏西風に運ばれた火山灰は、東北南部まで達し紀伊や山陽で20㎝以上、東北地方南部でもcm単位を超えたと推定されています。

また、この噴火に伴い大津波が発生しました。推定の高さは大隅半島で30mで、その痕跡は屋久島、大分県、徳島県、さらに長崎県や三重県でも確認されています。

南九州の地層を見ると、黒土層のなかに厚さ30cm~1mほどのオレンジ色をした土の層が挟まっています。主に陸上に降り積もった火山灰(アカホヤ火山灰)の調査から、7300年前の鬼界カルデラの噴出物の体積は、マグマ量に換算すると80 km3と推定されています。これは、20世紀最大級のフィリピン・ピナツボ山の噴火(5km3)の16倍に当たります。

 

当時の日本は縄文時代早期から前期への移行期で、南九州は縄文文化の先進地域でした。

アカホヤの地層の下から縄文時代の大集落が発見されています。その集落は舟作の工具(世界最古)や燻製施設と大量の炉、独自の貝殼紋の土器などをともなっていました。当時、縄文時代早期の先進文化を誇っていたこの地域の縄文人たちは、鬼界カルデラ噴火で全滅したことは確実です。奄美大島の喜子川遺跡(きしがわいせき)、鹿児島県指宿市の橋牟礼川遺跡(はしむれがわいせき)、霧島市の上野原遺跡(うえのはらいせき)などでは、アカホヤ火山灰層の上位と下位では出土する遺物が異なるので,縄文時代早期前期を分ける層としての指針となっています。

大中原遺跡(鹿児島県南大隅町)では、幸屋火砕流が地表をはぎ取ったことが観察され、幸屋火砕流の噴火の前後では、石器や土器などの形式がまったく異なっていることが分かります。

このように幸屋火砕流は、当時栄えていた縄文文化を完全に破壊し、噴火後、数百年近くにわたって無人の地にならしめました。また、幸屋火砕流の噴火の時期を挟んだ土壌の中に含まれる花粉を分析した結果、少なくとも幸屋火砕流が堆積した周辺地域では600〜900年間、照葉樹林が回復しなかったという調査報告があります。

その後に住み着いた前期縄文時代の人々は、以前とはルーツが異なり、土器の様式も変わっていました。

 

〇 主な火山活動 (Wikipediaより)

(有史以前の火山活動)

  約96万年前

   ・安房テフラ 

  約63万年前

   ・小瀬田火砕流(屋久島や種子島に層厚10m以上で分布する火砕流堆積物。鬼界カルデラが供給源)

  約14万年前

  ・小アビ山火砕流(硫黄島と竹島に分布している火砕流堆積物(VEI-7?))

  約9万5000年前

  ・長瀬火砕流

  ・鬼界葛原(きかいとずらはら)火山灰(長瀬火砕流からの火山灰。九州から関東地方にかけて分布)

  約1万6000~9000年前

  ・籠港降下火山灰累層(ブルカノ式噴火によって形成された。 硫黄島での全体の厚さは約40m)                      

  約9000~7300年前

  ・長浜溶岩流(海面からの層厚は80m以上にも及ぶ)

  約7,300年前(暦年補正)

  ・船倉(幸屋)降下軽石(体積は約12.8~20km3 )

  ・船倉火砕流

  ・竹島(幸屋)火砕流(体積は約50km3。広く薄く分布している火砕流堆積物)

  ・鬼界アカホヤ火山灰(幸屋火砕流の火山灰)

  約6000年前~現在

  ・硫黄岳火山(流紋岩質の溶岩ドーム群からなる複成火山)

  約3900~3200年前

  ・稲村岳火山(溶岩流からなる成層火山)

 

(有史以降の火山活動)

  1934年(昭和9年)~ 1935年(昭和10年)

  ・硫黄島から約2km東方で海底噴火。直径約300m、標高約50mの昭和硫黄島が形成された。

  1936年(昭和11年)

  ・薩摩硫黄島の硫黄岳で噴煙を観測。

  1988年(昭和63年)

  ・薩摩硫黄島の硫黄岳で噴煙を観測。

  1999年(平成11年)~2004年(平成16年)

  ・薩摩硫黄島の硫黄岳で断続的に噴火。

 

地下プレート・マグマ

JAMSTEC BASE(ジャムステック:海洋研究開発機構)より(一部割愛)

西日本を載せたユーラシアプレートの下にフィリピン海プレートが沈み込み、地下100kmほどの高温・高圧の環境でプレートから水が絞り出されます。その水がマントルの岩石に加わることで融点が大きく下がって岩石が融け、マグマがつくられて上昇します。鬼界カルデラ付近は、そうしたマグマが上昇してくる場所です。上昇してきた玄武岩質や安山岩質のマグマの熱により、鬼界カルデラの海底下で地殻の岩石が融けて流紋岩質マグマができると考えています。

以前は、鬼界カルデラの内側に、大小の高まりがあることが知られていました。それは7300年前の噴火でカルデラができた後に、さらに地下からマグマが上昇してきてつくられた溶岩ドームだと考えられてきました。溶岩ドームの岩石を分析したところ、岩石の大部分は7300年前よりも後にできた流紋岩の組成と一致することが分かりました。カルデラ噴火の後に、地下から流紋岩質マグマが上昇して溶岩ドームをつくったことを示す証拠です。カルデラ噴火のときに、マグマだまりから海底へつながる割れ目ができました。そこを通って流紋岩質マグマが上昇してきて溶岩ドームができたのでしょう。海底へつながる通り道があることで、流紋岩質マグマに含まれていたガスや水分が少しずつ抜けていきます。そのため、爆発的な噴火はせずに、マグマがじわじわと上昇して溶岩ドームをつくったと考えられます。溶岩ドームの流紋岩の化学組成を分析すると、もとになったマグマの温度は約900℃と推定されます。ほかの火山の流紋岩質マグマは通常700~800℃くらいなので、100℃以上も高温です。

鬼界カルデラの下には流紋岩質のマグマだまりのほかに高温の玄武岩質マグマも上昇してきて、そのすぐ上の流紋岩質のマグマだまりを直接熱しているのかもしれません。海底下約30km付近の地殻とマントルの境界付近から二種類のマグマが上昇し、海底下3〜5km付近の地殻の中で、そのような二層構造のマグマだまりがつくられたという仮説を立てています。現在、火山活動を続けている薩摩硫黄島の硫黄岳は、流紋岩質マグマを噴出しています。その西隣にある稲村岳は約3000年前に噴火して、玄武岩質のマグマを噴出しました。カルデラ噴火が起きた7300年前以降も、この海域の地下には、流紋岩質マグマと玄武岩質・安山岩質マグマの二層構造マグマだまりがあり、次の大噴火に向けてマグマが少しずつ増え続けている可能性があります。

これまでのカルデラ噴火の研究で、マグマだまりのマグマが全て放出されるのか、あるいは一部は残るのか議論されてきました。9万5000年前の鬼界カルデラでは、マグマが全て噴出してマグマだまりは空っぽになったようです。

最も新しいカルデラ噴火は縄文時代なのです。

フィリピン海プレートが海底下100km以深まで沈み込んだ付近でマグマがつくられ、鬼界カルデラへ上昇します。

日本列島では、約100万年前まで東北地方でもカルデラ噴火が起きていましたが、それ以降のカルデラ噴火はほとんど北海道と九州に限られています。

 

 

 

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次回は 第10回「阿蘇山①」

 

 

(担当 G)

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