『九州の地質的景観』第8回 桜島② | 奈良の鹿たち

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『九州の地質的景観』 

第8回

<桜島②>

 

 

有史以降の噴火

歴史時代の噴火では、天平宝字噴火の764年(奈良時代)から文明噴火の1471年(室町時代)までのおよそ700年間の噴火記録はありませんが、地質学的なデータから、その間にも南岳の山頂火口~山頂付近でかなり激しいブルカノ式噴火が2回発生したことが明らかになりました。その一つは南岳の西側山麓に分布する「大平溶岩」です。大平溶岩は地形から判断して山頂火口から流下した溶岩であり、その年代は950年頃であることが判明した。 溶岩の量も小規模で軽石噴火を伴っていないことから、南岳の成長期とほぼ同様な活動様式であったと判断されます。もう一つは1200年頃の噴出物です。この噴火で中岳が誕生したものと推定されます。歴史時代の火山活動を概観すると、大噴火はすべて山腹噴火であり、その間に南岳山頂火口でブルカノ式噴火が発生していました。南岳山頂噴火は950年頃、1200 年頃と1955年(昭和30)年以降現在まで続く3期が認められます。

桜島火山の噴火記録は、奈良時代の和銅元年(708年)が最古であり、その後,多数の記録が残されているものの、その記述は断片的で実態のよく分からないものが多いです。大規模噴火としたものは天平宝字噴火(764 年),文明噴火(1471 年)、安永噴火(1779 年)および大正噴火(1914 年)で、山腹からのプリニー式噴火による軽石の噴出で始まり、最終的には溶岩の流出で終わるという推移をたどってきました。

 

●   天平宝字噴火(奈良時代 天平宝字8~10年、764〜766年)

奈良時代764年の天平宝字噴火は南岳の東山麓で起きたもので、まず鍋山火砕丘が形成され、その海側に長崎鼻溶岩が流出しました。鍋山火砕丘はマグマ水蒸気噴火に特有な径の大きな火口を持つタフコーン(火山の爆発的な噴火で生じた火口地形のこと)です。この火砕丘は当時の海岸付近に出現したため、形成中〜形成直後の波浪侵食によりその東半分は欠落しています。長崎鼻溶岩は、欠けた火砕丘の基部から広がるように分布し、溶岩流出が火砕噴火の後であることを示しています。黒神沖の海底には、北東方向にのびる溶岩状の地形が認められますが、海域に流入(あるいは海底に貫入)した溶岩地形と推定されます。なお鍋山の東に隣接する小火砕丘(蝦ノ塚)も、この時期に形成されたものです。766年には群発地震が発生し、多くの島民が避難したとの記録があります。火砕物と溶岩を合わせ たマグマ噴出量は、それ以降の大噴火に比べると小規模でした。

 

●   文明噴火(室町時代 文明3~8年、1471~1476年)

天平宝字噴火から文明噴火までの700年間は噴火記録がなく、実際に噴火がなかったかどうかも不明でしたが、その間の950年頃や1200年頃にも、山頂もしくはその 近傍からの溶岩の流出を伴う噴火のあったことが噴出物(大平溶岩・中岳溶岩及び火砕岩)から確認されています。

1468年(応仁2年)に噴火した時の被害の記録はありません。

1471年(文明3年)から5年の間に3回もの噴火が記録されています。(l471年、1475年、1476年)

1471年(文明3年)9月12日に大噴火(火山爆発指数VEIは5)が起こり、北岳の北東山腹から溶岩(北側の文明溶岩)が流出し、死者多数の記録があります。

1475年(文明7年)8月15日には桜島南西部で噴火が起こり、溶岩(南側の文明溶岩)が流出しました。

1476年(文明8年)9月12日のプリニー式噴火(VEIは5)は、歴史時代の軽石噴火としては最大規模であり、北岳の北東山腹から溶岩(北側の文明溶岩)が流出し、膨大な軽石のため北岳の地形が一変したほどでした。溶岩噴出量は0.8億km3と推定され、噴火災害も甚大であったと記録されていますが、具体的な数字は分かっていません。島の南西部に溶岩が湧き出してできた沖小島と烏島が形成され、桜島本島とつながり今の燃崎ができました。

 

●   安永噴火(江戸時代 安永8年、1779年)

 

<↑安永噴火絵図>

安永噴火は、1779年11月8日(安永8年10月1日)に発生した大噴火(火山爆発指数VEIは4)であり、 新島(安永諸島)の誕生など、特異な現象が観察された噴火でもありました。 前兆地震は噴火前日(11月7日)の午後6時頃、すなわち噴火の約20時間前から感じられ、噴火の3時間前には井戸水の沸騰や湧水の増加、さらには海水の変色など 顕著な前兆現象が認められました。さらに2時間前には音もなく山頂から白煙が立ち上がりました。

格的な軽石を伴った噴火(プリニー式噴火)は、午後2時頃、まず南側山腹で発生し、夕方には火砕流が発生しました。その後(おそらく数10分以内に)北東山腹でも噴火が始まりました。 南側火口からの溶岩は最高位火口からではなく、中腹の火口(標高500〜600m)から流出しました。南側火口周辺には、溶結した降下火砕物や火砕流堆積物からなるアグルチネート(火山弾や火山礫などの火山砕屑物が火口周辺で堆積・溶結した岩石)が形成されました。南側火口では午後5時頃に火砕流の第1波が発生しました。北東側火口からも火砕流が発生しましたが、正確な日時は分かっていません。大量の軽石や火山灰の噴出のピークは、火砕流が発生した頃から翌朝(11月9日)にかけてであり、噴煙の高度は12 kmに達したとされています。 長崎や江戸でも降灰がありました。この軽石噴火がピークを過ぎた頃から、北岳の北東部山腹および南岳の南側山腹から溶岩の流出が始まったものと推定されます。翌日の11月10日(10月3日)には海岸に達しました。 安永溶岩が海岸に到達したのは、南側では11月11日から14日までの間(正確な日時は不明)、北東側では11月11日であったことが分かっています。南側火口の活動はまもなく沈静化しましたが、北東側の沖合ではその後1年以上にわたり海底噴火が発生し、安永諸島と呼ばれるいくつかの島が出現しました。また、噴火に伴う津波もたくさん発生しました。 海底噴火は陸上噴火発生の翌日(11月9日)の夜には確認されています。すなわち溶岩が海岸に到達する前に、海底噴火が始まっていました。

翌年1780年8月6日(安永9年7月6日)には桜島北東海上で海底噴火が発生、続いて1781年4月11日(安永10年3月18日)にもほぼ同じ場所で海底噴火およびそれに伴う津波が発生し被害が報告されています。海底噴火では、まず巨大軽石を湧出する活動があり、その後、次第に潜在ドームの成長による海底の隆起が顕著になりました。その後、海底の隆起が顕著になり、一部ではマグマの噴出を伴いながら、1年半の間に次々と島が誕生しました。燃島、硫黄島、猪ノ子島など6つの新しい火山島(安永諸島)が出現しましたが、現在残っているのは新島(雄島)、岩ばかりの硫黄島、獅子島、中之島の4島です。最も大きい燃島(新島)には1800年(寛政12年)から人が住むようになりました。猪子島と硫黄島は海底に噴出した安永溶岩の島ですが、中ノ島と新島は海底が隆起し陸化した島です。隆起した島の表面には沈積した巨大軽石が点在しています。また新島の表面付近には貝化石を含む海成層があり、上昇中に生じた断層地形が明瞭に残されています。

安永諸島がほぼ出そろったころから、海底での爆発が顕著になり、津波による被害も生じています。津波の発生は6回記録されていますが、そのうちの3例は爆発をともなっていました。 例えば、1781年4月には、突然の爆発で漁船が吹き飛ばされ、波高10数mの大きな津波が発生しました(死者・行方不明 者は約20人)。 安永噴火による死者は153名、その大半は島の南-南東海岸の集落に集中しており、降下軽石や火砕流の分布域とほぼ一致しています。

安永噴火のあと、鹿児島湾の奥部海岸では異常な高潮に見舞われ、少なくとも4~5年は回復しなかったといわれています。この高潮は広域的な地盤の沈降により発生したものであり、鹿児島湾北部沿岸の海水面が1.5~1.8m、鹿児島市付近でも1 m 以上も上昇したという記録があり、噴火に伴う地盤の沈降が起きたと考えられています。この地盤沈降は安永噴火で大量のマグマが噴出したために生じたものです。

安永噴火の噴出量は約2.0km3 と推定されていますが、海底への貫入分を含めると、さらに大きな値になると思われます。

 

●  大正噴火(大正3年、1914年)

 

 

桜島の大正噴火の前後には、南九州一帯で地震・噴火活動等が活発でしたが、1914年に入っても霧島地域での地震・火山活動は活発でした。1914年(大正3年)1月に入ると、噴火の数日前から地震が多く発生したり、頂上付近で崩落が起こったり、また海岸のいたるところで温水や冷水が湧き出たり、海岸近くの温泉で臭気を発する泥水が湧いたりする前兆現象がみられました。桜島東北部で地面の温度が上昇し、冬期にも拘わらずヘビ、カエル、トカゲなどが活動している様子が目撃されています。1月10日には鹿児島市付近を震源とする弱い地震が発生し、翌日の11日の早朝にかけて有感地震が頻発するようになりました。噴火開始まで微小地震が400回以上、弱震が33回観測されています。山頂付近で岩石の崩落に伴う地鳴りが多発し、山腹において薄い白煙が立ちのぼる様子も観察されています。

噴火開始当日の1月12日午前8時から10時にかけて、桜島中腹からキノコ雲状の白煙が沸き出す様子が目撃されています。そして、南岳の西山腹でプリニー式噴火大噴火が始まり、約10分後には東側山腹でも噴火が始まりました。 翌13日夜に溶岩流が発生しました。このプリニー式噴火(火山爆発指数VEIは4)は1日半以上続きましたが、噴火当日の日没後(18:29)、鹿児島市側でM7.1の地震が発生し、35名の死者が出ました。13日になり噴火の勢いは徐々に低下しましたが、その夜半(20:14)、西側火口で全山が真赤に燃えるような激しい火砕流噴火が発生しました。溶岩はこの爆発以降に流れ出し、その表面には溶結した軽石堆積物の岩塊をのせていました。その後小爆発を繰り返しながら溶岩が流出しましたが、約2週間後にはほぼ鎮静化しました。一方、東側の割れ目火口でも溶岩が流出し、1月30日には溶岩が瀬戸海峡(距離最大400m、最深部100m)を埋め立て、桜島は大隅半島と陸続きとなりました(大正I期溶岩)。

 

 

その後約1か月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され多量の溶岩が流出しました。犠牲者58名、負傷者112名、焼失家屋2268戸と記録されています。5つの集落が溶岩流に埋没、3つの集落が火砕流で消失し、噴火前約2万1千人のうち約半数の島民が移住を余儀なくされました。溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、島の東側にある黒神地区が2mもの火山灰や軽石で埋まった他、火山灰は九州から東北地方さらにはロシアの極東にあるカムチャッカ半島に及ぶ各地で観測されています。

軽石等を含む降下物の体積は約0.6 km3、溶岩を含めた噴出物総量は約2 km3(約32億トン、東京ドーム約1,600個分)溶岩に覆われた面積は約9.2 km2に達しました。

その活動 は1年半ほど継続し(大正II期溶岩)、特に1915年3〜4 月には溶岩末端崖から二次溶岩が漏れ出し、溶岩三角州を 形成しました。大正噴火で噴出したマグマの総量は約1.5 km3であり、噴火後には姶良カルデラを中心に同心円状の沈降が観測されました。鹿児島市付近でも30〜50cmほど沈降しました。

 

昭和噴火(昭和21年、1946年)

「大正大噴火」が終息した後約20年間は穏やかな状態となっていましたが、1935年(昭和10年)9月、南岳東側山腹に新たな火口が形成され約1ヶ月間断続的に噴火を繰り返すようになりました。

1939年(昭和14年)10月の噴火において南岳山頂火口縁の東側斜面に新噴火口(昭和火口)が形成され 小規模な火砕流が観察されました。この噴火は5月まで続き、溶岩によって2つの地区が埋没しましたが、大正噴火のような激しい軽石の噴出はありませんでした。

その7年後の1946年(昭和21年)1月から昭和火口で爆発が頻発するようになり、同年3月9日に火口から体積0.18km3の昭和溶岩が流出しました。この噴火は「昭和噴火」と呼ばれています。大正大噴火とは異なり、噴火前後の有感地震はほとんどありませんでした。 3月11日夜から連続的に噴火するようになり、大量の火山灰を噴出しました。火山灰の影響で、同年5月に持木・野尻地区で洪水が度々発生しました。大規模な軽石噴火はありませんでしたが、ブルカノ式噴火(爆発的な噴火を伴い、火山灰、火山弾などを噴出するとともに、粘り気の強い溶岩が流出する噴火)の噴出物により火砕丘状の地形が形成されました。昭和噴火は山頂に近い側火口から溶岩を流出しましたが、プリニー式噴火を伴っていないため、他の大噴火ほどではありませんでした。昭和溶岩は東側の大正溶岩がつくった台地(鍋山地区)付近で南北2つに分流し、北側は黒神地区の集落を埋めつつ、4月5日に海岸に達した。南側は有村地区を通過し、5月21日に海岸に達しました。死者1名、火山噴出物総量は約1億m2でした。この噴火は同年11月頃に終息しましたが、その後も散発的に噴火が起きています。

 

2000年代以降(平成12年以降)

2003年(平成15年)から2006年(平成18年)にかけての南岳山頂火口の爆発回数は年間十数回程度にまで減少しました。

2006年6月4日に昭和火口で突然小規模な噴火が再発しました。噴火活動は2週間ほどで終了しましたが、その間に昭和火口が中心となって爆発の回数が再び増加へ転じ、小規模な火砕流も発生しました。1年後の2007年5月16日に再び小規模な噴火活動が始まりましたが、この活動も一ヶ月ほどで終息しました。2008年も爆発回数は多くはありませんでしたが、噴火直後に山体斜面で赤熱現象が頻繁に観察されるようになりました。2009年になって急激に活動度が高まり、その年の後半からはブルカノ式噴火の頻度が増加し、年間爆発回数は2009年548回、2010年896回、2011年は996回、2012年は885回に達しました。このように爆発回数は1980年代の倍以上に増えましたが、1回ごとの噴火の規模は当時と比べるとはるかに小さかった。

活動再開前の昭和火口は、水平方向の幅が150mほどの斜面上の窪地でした。しかしこの2006年から2012年の間において、従来の記録を大きく上回る爆発的噴火の影響により、昭和火口の大きさが2006年11月時点よりも約2.5倍の大きさの長径が350mまでに拡大しました。

しかし、桜島は2020年、221回の爆発的噴火(爆発)をしました。その全てが南岳山頂火口。2008年以降、活動の主役だった昭和火口は2017年10月を最後に爆発していません。

なぜ昭和火口が活動を停止しているのか。京都大学火山活動研究センターによると、二つの火口は片方が活発になるともう一方が静かになる傾向があり、同時期に活動することはほとんどないということです。

「地下約5kmのマグマだまりからマグマの供給される通り道は、二つの火口に途中で枝分かれしているという。南岳は噴石や火山灰などの噴出物の量、噴煙の高さなど1回の噴火の規模が、昭和火口に比べて格段に大きいのが特徴だ。南岳山頂火口の方がマグマの通り道が大きいため」とみられます。

現在は南岳山頂火口(B火口)との間に存在していた旧斜面はなくなり、2つの火口が隣接する形態となっています。 特に2009年以降、昭和火口の外側には噴出物が集積し平成火砕丘が出現しました。

2013年8月18日16時31分、昭和火口で爆発的な噴火が発生。噴煙の高さは2006年からの昭和火口の活動が再開して以来最も高い5000mまで達しました。火砕流も約1kmにわたって観測されました。

2015年8月15日、午前7時ごろから桜島南岳直下約2.5km付近を震央とする火山性地震が急増すると同時に、昭和火口付近を中心に東西に5~10cm相対的に離れる地殻変動が観測されました。しかしその後噴火は発生せず、17日後の9月1日に警戒レベルは引き下げられました。

2020年6月4日午前2時59分に南岳山頂火口で起きた噴火では、1955年の観測開始以降で最高高度の、火口から7850-9570mの噴煙を観測しました。この噴火では火口から南南西に3km地点で、火山弾による直径6m・深さ2mのクレーターが形成されており、噴火警戒レベル5相当のイベントであったことが指摘されています。

2022年7月24日20時05分に、南岳山頂火口で爆発的な噴火が発生し、噴石が火口から2.5km付近まで飛散しました。この噴火を受けて、気象庁は噴火警戒レベルをこれまでのレベル3から最も高いレベル5の「避難」に引き上げましたが、3日後の7月27日に噴火警戒レベルは3に引き下げられました。

 

 

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次回は 第9回「鬼界カルデラ」

 

 
 

(担当 G)

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