『九州の地質的景観』第5回 雲仙 | 奈良の鹿たち

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『九州の地質的景観』 

第5回

<雲仙>

 

 

雲仙火山の概要

雲仙岳は九州中央部を東西に横断する別府~島原地溝帯の西部にあり、島原半島中北部の4分の3を占める複数の山体からなる火山群です。雲仙岳という山は無く、普賢岳を中心とする20以上の山々の総称であり,東の眉山から西の猿葉山までの山々を含み、島原半島の中央部の周囲の裾野も含めて東西20km、南北25kmの広大な範囲を占めています。火山体の中央部には東西性の断層群からなる雲仙地溝があって、現在も南北に拡大し沈降し続けています。

雲仙火山の活動は、 約400万年前,島原半島の  南端の早崎半島の玄武岩の噴出から 始まりました。この火山は、高岳・九千部岳など侵食が進んだ古期(50万年から10数万年前)の火山体と、普賢岳・眉山・妙見岳・野岳などの火山原面を比較的よく残す新期(10万前以降)の火山体とから成り立っています。両者の間には数万年程度の休止期があったらしい。雲仙火山全体の総噴出物量は溶岩に換算して約44km3にのぼるが、古期噴出物が36km3と、新期噴出物の8km3に比べて圧倒的に多いのです。すなわち雲仙火山の骨格は古期に出来ていたといえます。

約200年前の1792年(江戸時代)には、島原市街背後の眉山が崩壊し、わが国火山災害史上最悪の被害をもたらしました。

現代でも火山活動が続いており、1990年11月に最新の噴火活動を開始しました。

1991年6月の火砕流では多数の犠牲者を出し、家屋や農産物に多大の被害を与えました。

1991年5月から1996年5月の間に、9432回の火砕流が観測されました。

 

古期雲仙火山~新期雲仙火山

古期雲仙火山

古期雲仙火山の活動はおよそ50万年前に始まりました。火砕流やマグマ水蒸気爆発を中心とする爆発的な噴火を行っていたと考えられます。最初に高岳、絹笠岳、矢岳などが形成されて九干部岳火丘群となりました。やがて噴火活動は北側に移動し、九干部岳や吾妻岳が形成されました。その後、垂木台地や眉山の基底部がおよそ30~10数万年前に形成されました。雲仙地溝の断層活動による変位や侵食を受けて、この頃の火山地形はあまり残っていません。

新期雲仙火山

新期雲仙火山の活動は半島中央部から東側でおよそ10万年前から始まり、溶岩ドームや厚い溶岩流を中心とする活動に移行しました。野岳、妙見岳、普賢岳の各火山が次々と形成されました。普賢岳火山の活動は有史に2回の噴火活動があり、最新の活動は1990年に始まり現在も続いています。

また、眉山火山は普賢岳火山の活動とは別に、およそ4千年前に島原半島東端部で噴出しました。眉山は安山岩からデイサイトの溶岩ドームや厚い溶岩流を主体としています。山の裾野には、火砕流、岩屑なだれや土石流などの堆積物が広がり緩傾斜面を形成しています。新期の噴出物は古期の噴出物とは異なり、雲仙地溝の活動による変位をあまり受けていません。

眉山は1792年( 寛政4年・江戸時代)には、山体崩壊を起こし甚大な被害をもたらしました。

 

普賢岳と平成新山

普賢岳は1990年11月17日に198年ぶりに噴火活動を開始し、その後、噴火活動はようやく収まり、溶岩ドームも雄大な景観を持つ雲仙岳の一部となりました。溶岩ドームとは、粘り気の強いデイサイト溶岩が火口から次々と押しだされ、溶岩が流れることなく火口近くに積み重なったものです。マグマの供給が続くと、溶岩ドームは盛り上がったり崩れたりします。また溶岩の出口を少しずつ変えながら、その形はどんどん変化します。このドームの部分は「平成新山」と名付けられました。

平成新山(溶岩ドーム)は成長とともに幾度かの崩落を繰り返し、その崩落の際に引き起こされたのが火砕流で、尊い人命がたくさん奪われました。火砕流は、高熱の火山岩の塊や火山灰や軽石などが粉々に砕けて、高温の火山ガスを放出しながら山の斜面を一気にかけ下るもので、人命はもとより大変な被害をもたらすものです。平成新山(溶岩ドーム)の標高は、1995年6月現在1488mで普賢岳より138m高い。現在はやや縮小して1482.7m(国土地理院火山基本図より)となっています。

 

雲仙地溝と雲仙岳と千々石カルデラ

雲仙火山の中央部には雲仙地溝が横断しており、その地溝の一部である橘湾はほぼ円形の千々石カルデラ(ちぢわカルデラ)で、その地下数十kmにはマグマだまりが存在します。

 

1663-64年噴火及び1792年の噴火活動

普賢岳火山の有史の噴火活動は、現在のものを含めて3回知られています。第1回目の1663年(寛文3年・江戸時代)12月の噴火では、普賢岳の北北東の900mに位置する妙見岳の崩壊壁(飯洞岩)のすぐ内側から古焼溶岩(安山岩)が噴出し、北へ全長1kmにわたって森林を覆いました。その翌年春には、普賢岳南東山腹600mの低地である九十九島池(火口)から出水し、水無川河口の安徳川原で氾濫し30余名が死亡しています。

第2回目の1792年(寛政4年・江戸時代)の噴火では、その前年の1791年11月から半島西部の小浜付近で群発地震が始まり、1792年1月に地獄跡火口から噴煙をあげました。2月10日、普賢岳山頂の地獄跡火口より新焼溶岩(デイサイト)が噴出し、2月28日、穴迫谷の琵琶の首から噴煙、土砂が噴出しました。3月1日より溶岩の流出が始まり2カ月近く継続しました。3月22日には峰の窪からも噴煙が上がり、溶岩も流出しました。3月25日には古焼頭からも噴煙が上がり、普賢岳の北東部に溶岩が流れ出し全長は2.7kmとなりました。4月の終わりには、島原付近で地震が頻発し地割れが生じました。その後も噴火は継続し、6・7月になっても時折噴煙を吹き上げました。

 

眉山山体崩壊(わが国最大の火山災害)

1792年( 寛政4年・江戸時代)、5月21日の激震により島原市街地背後の眉山が山体崩壊し、これによる岩屑なだれが市街地を襲い島原湾に突入しました。当時、雲仙岳周辺では前年秋から地震が頻発していました。寛政4年1月18日(1792年2月10日)に普賢岳で噴火が始まり、2月には溶岩流が北側の谷沿いを流下しました。3月1日から3日にわたり眉山・島原地区で群発地震が発生し、特に眉山では山鳴りが激しく、地震による崩壊や落石が頻発しました。そしてついに4月1日酉の刻(5月21日20時)に2度の強い地震とともに、眉山が大規模な山体崩壊を起こし、3億立方メートル以上(東京ドーム250杯)の岩屑なだれが発生しました。この眉山岩屑なだれ堆積物により海岸線は長さ4km幅1kmにわたって埋め立てられ、大小無数の小島(九十九島)ができました。岩屑なだれが有明海に突入して発生した大津波が対岸の肥後(現在の熊本県)を襲い、島原の被害者と合わせて死者・行方不明者およそ15,000人という日本史上最大の火山災害となりました。津波の遡上高は肥後側で15~20m、天草でも20mを超え、島原では60m近い記録もあります。被害者は、島原で5,000人、肥後側で1万人と言われています。この大惨事は、「島原大変肥後迷惑」といわれました。火山災害といわれていますが、実際は地震・津波災害でした。

 

1990年以降の噴火活動

1990年以降の噴火活動は、1968年頃より活動期に入っていました。最初の群発地震は1968年頃より始まり1975年まで継続し、1973年には眉山付近でも震度3を最高に有感地震が11回発生しています。この活動の最終段階で普賢岳東側の板底(おしが谷)で大量の火山性ガスが噴出し、30本ほどの杉が被害を受けました。1975年には周囲に鳥獣の死骸が散見され、岩の割れ目からは高濃度の二酸化炭素が検出されました。この一帯は1792年の噴火のときにも火山性ガスが噴出しており、この岩場は毒石と呼ばれていました。1975年以降も低調ながら地震は散発的に発生しており、1979年6~9月には眉山東麓を震央とする最大震度5相当の強い揺れを筆頭に89回の有感度地震が発生しています。島原温泉では溶存炭酸ガス濃度が1975年より急上昇し、30%も増えた所もありました。1984年4月より橘湾で群発地震が相次ぐようになり、葉山南側付近を震央とするM5.7、震度5の地震が8月に起きました。この地震を契機に島原半島の隆起が観測され始めており、橘湾からのマグマ供給が始まったとされています。

このような背景が進行して1990年以降の第3回目の大噴火が起こりました。

1792年の大噴火以来、2世紀ぶりの1990年7月に火山性微動が観測され、11月17日に山頂付近にある神社脇の地獄跡火口及び九十九島火口の2つの火口から高さ200~300mの火山灰混じりの噴煙をあげ、火口周辺に土砂や噴石を放出しました。噴煙はその後急速に弱くなり、一週間後には火山性微動も停止しました。この噴火は2つの噴火孔より熱水の吹き上げと雲煙を認めるのみでした。同年12月には小康状態になって道路の通行止めなども解除になり、そのまま終息するかと思われました。しかし、1991年2月12日に普賢神社北西の屏風岩で新火口を作る噴火が再び起こりました。 2月12日の噴火では大量の火山灰を含む噴煙を高さ数百mに激しく吹き上げました。火山灰の中には、少量ながら新鮮な火山ガラスを含んでおり、マグマ水蒸気爆発でした。4月上旬以降、地獄跡火口では爆発的に激しく土砂を噴出し火口を拡大していきました。さらに4月3日、4月9日と噴火を拡大していきました。

5月中旬に地獄跡火口周辺では、火口直下で火山性地震が頻発し東西方向の地割れが発生しました。5月15日には降り積もった火山灰などによる最初の土石流が発生、さらに噴火口西側に多数の東西方向に延びる亀裂が入り、マグマの上昇が予想されました。そして5月20日に地獄跡火口底に溶岩の噴出が確認されました。地獄跡火口からの溶岩は粘性が高かったために流出せず火口周辺に溶岩ドームが形成されました。溶岩ドームは桃状に成長しやがて自重によって4つに崩壊しました。その後も溶岩ドーム下の噴火穴からは絶え間なく溶岩が供給されたため、山頂から溶岩が垂れ下がる状態になり、形成された順番に「第1-第13ローブ」と命名されました。

(「ローブ」lobe:溶岩が流れ出した先端部付近の袋状、舌状の構造の事。流れていく粘性の比較的低い高温度の溶岩表面が冷えていくことで固化していく時表面張力により丸みを帯びた薄い冷却殻をもつために出来る)

14個のローブの うち 現在では11-Bを除いて 原型をとどめているものはありません。

 

5月24日には溶岩は、火口縁を越えて東側の水無川源流部へ崩落を始めました。高温の溶岩塊は崩落の過程で粉砕し、破片が火山灰や空気やガスと渾然一体となって時速100kmものスピードで斜面をかけ下りる火砕流(メラピ型火砕流)となりました。その後火砕流は日ごとに流走距離を延ばし、6月3日16時8分には溶岩ドームの東側と既存の山体の一部が大きく崩壊して規模の大きな火砕流が発生しました。北上木場地区にいた報道陣をはじめ多数の人々が呑み込まれ、死者・行方不明者43名の惨事となりました。この時の降下火山灰は、宮崎県延岡市にまで達しました。溶岩ドーム崩壊後の馬蹄形地形の内側には新たな溶岩ドーム(第2ローブ)が生成し、斜面に沿って成長しました。

1991年6月8日には、新しく供給されるマグマに押し出された溶岩ドームが既存の山体の一部とともに地すべり状に崩落し、急激な減圧により爆発して島原市街地に噴石を降らせました。9月15日には流走距離5.5kmに達する火砕流が発生し火砕サージにより大野木場小学校が焼失しました。1990年11月から1995年2月まで続いた雲仙岳の噴火活動は、38回の土石流と7回の大火砕流を中心として荒れ狂った自然のものすごさを物語りました。死者41人、行方不明3人、負傷者12人、建物の被害2511件、被害額2299億4197万円という数字が如実にあらわしています。

噴火活動は途中一時的な休止を挟みつつ1995年(平成7年)3月頃まで継続しました。

 

 

 

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次回は 第6回「耶馬渓」

 

 
(担当 G)

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