『関東の地質的景観』
第4回
伊豆半島①
(成立ち)
『伊豆半島の周辺』
伊豆半島周辺には4つのプレートが重なり合っています。
フィリピン海プレートの東縁には、活動的な火山弧(火山が弓なりに繋がている状態)である「伊豆・小笠原弧」をつくり上げています。「伊豆・小笠原弧」とは、北は伊豆半島から伊豆大島、三宅島、八丈島、鳥島、南は硫黄島までの火山島を結んだ南北にのびる地形の高まりです。(図2:伊豆諸島 参照))。さらに、海上に現れていない数多くの海底火山も存在しました。伊豆大島や三宅島は、その頭の部分が海面上へ顔を出したものでした。中には富士山を凌ぐ高さ4000mを超える巨大火山もありました。「伊豆・小笠原弧」は,フィリピン海プレートと呼ばれる岩盤の上にのった形となっていて、伊豆半島はそのフィリピン海プレート上の北の端に位置していました。
「伊豆・小笠原弧」をのせたフィリピン海プレートは北西に向かって移動しており,南海トラフにおいて日本列島の下に沈み込んでいます。
「伊豆・小笠原弧」の高まりから150kmほどの東の海底には,「伊豆・小笠原海溝」とよばれる深さ1万mにもおよぶ深い溝ができていました。ここで、厚さ100kmほどの岩盤である太平洋プレートは1年間に10cmほどの非常にゆっくりした速度でフィリピン海プレート(「伊豆・小笠原弧」)の下に沈み込んでいます。
「伊豆・小笠原海溝」において,境界が地下にもぐりこんだ深度100km前後でプレートからしみ出た水分が地下のマントルの融点を下げ,大量のマグマを発生させました。そのため、このマグマは浮力によって,徐々に地表に向かって上りはじめました。
現在でもフィリピン海プレートは、年間4~5cmの速さで北西方向に移動して本州を突き上げています。
『伊豆半島の火山』
(最近200年間に噴火した火山)
図5は,伊豆半島とその周辺において最近200万年間に活発な噴火活動をおこなった火山をすべて示したものです。これらのうちの多くは既にその火山としての生涯を終えている。天城山(あまぎさん)や達磨山(だるまやま)も,かつては激しい噴火活動を繰りかえしていた火山でした。
『伊豆半島の成り立ち』
① 深い海の時代(約2000万年前~1000万年前)
約2000万年前、伊豆は本州から数百km南、現在の硫黄島付近の緯度にあった海底火山群でした。この海底火山の噴出物を,現在の伊豆半島で見ることができます。
約2000万年前の海底の痕跡を見ることができます。伊豆半島西海岸の堂ヶ島の仁科川(にしながわ)は、深く長い峡谷を刻んでいます。河口から10km以上さかのぼると、伊豆半島でもっとも古い時代の地層である「仁科層群(にしなそうぐん)」が分布しています。「仁科層群」の地層には,玄武岩や安山岩の溶岩や,火山礫・火山灰などの火砕岩からできており,海底でたまった証拠が多くみられます。また、溶岩や土石流たい積物の間には,深海底にゆっくりと降りつもった泥がはさまっています。海底噴火によって流れ出した溶岩流や、いったん積み重なった噴出物が崩れて海底の斜面を流れ下った水底土石流(すいていどせきりゅう)の堆積物です。このうち、前者の溶岩流は「枕状溶岩(まくらじょうようがん)」と呼ばれます。粘り気の少ない溶岩が海底を這うと、溶岩自身の表面張力や海水による急冷作用によって、ところどころにくびれのあるチューブ状の流れとなっています。後者の堆積物の泥の中にふくまれるプランクトンの化石から,「仁科層群」のたまった年代を決めることができます。
西伊豆町一色(いしき)の枕状溶岩はこの「仁科層群」に含まれる溶岩流の一部です。
1500万年前頃までには、四国海盆の海底火山活動はおさまり,今度は「伊豆・小笠原弧」で海底火山活動がはじまりまりました。この海底火山から噴出した火砕岩が,深い海底に土石流や乱泥流となってなだれこんだり,降り積もったりしてできたのが,「湯ヶ島層群(ゆがしまそうぐん)」とよばれる地層です。湯ヶ島町狩野川沿いに見られます。
1100万年前くらいになると,海底の一部が浅くなり,貝殻やサンゴなどの浅い海に住む化石の破片がうず高く積もる場所もできてきました。河津町の梨本や中伊豆町の下白岩(しもしらいわ)にみられる石灰岩や石灰質砂岩は,この時期の堆積物です。後に伊豆半島となる部分の海底は,フィリピン海プレートの移動とともにゆっくりと本州へ近づいて行きましたが,この頃はまだ本州からはるか南にあったため,熱帯性の大型のプランクトン(有孔虫)(レピドサイクリナ)や貝がたくさん住んでいました。中伊豆町下白岩は、この化石産地として有名です。
② 浅い海の時代(1000万年前~200万年前)
1000万年前頃,のちに伊豆半島となる部分をふくむ伊豆・小笠原弧の北部一帯ではげしい地殻変動が起き,「湯ヶ島層群」や「仁科層群」の地層が褶曲(しゅうきょく)したり,断層によって切られたりしました。この地殻変動の原因はまだよくわかっていないが,伊豆・小笠原弧の西部で地殻が割れて広がったためではないかと考えられています。この事件のあと,のちに伊豆半島となる場所の全体が浅い海となり,あらたにたくさんの海底火山ができました。火山の中の、あるものは成長して海面上にその姿をあらわし火山島になりました。ちょうど現在の伊豆七島のような環境ができあがりました。
この時期の海底火山の噴火にともなって発生しました、大規模な土石流堆積物で形成された地層を「白浜層群」と呼びます。南伊豆の地質は、ほとんど「白浜層群」の地層でできているので、土肥から堂ヶ島を経て石廊崎をまわって河津浜にいたる海岸の崖で見ることができます。海底土石流堆積物の上に重なる降下軽石の層に、海流や波浪の作用によってつくられた筋状の縞模様が見られます。
石廊崎で見た岩石も「白浜層群」で、石英安山岩・流紋岩とその「集塊岩」です。それは、酸性質なマグマから噴出した火砕流堆積物が固結したものです。「集塊岩」というのは火砕流が固結した砕屑物の塊のことです。白っぽい灰のようなもの(火山ガラス)の中に、石英安山岩などの角張った礫が見られます。これが「火砕流堆積物」です。火砕流は、高温のマグマのガスと火山物質がそのまま火口から噴出する現象で、高速で流動し堆積します。その中に、レピドシクリナという大型有孔虫化石を含んでおり、それはその時代に日本に広く生息していた示準化石です。
大仁町のシンボル 城山(じょうやま)は,「白浜層群」の時代にできた火山の根っこ(火道:マグマの通り道)が浸食作用によってむき出しになったものです。
この時代の浅い海にはたくさんの生物が生息しており,それらの生物の殻が粗い砂となって海底に堆積しました。「白浜層群」の崖を作る地層も、軽石や火山灰が海に溜まってできた凝灰質砂岩であり、よく見ると貝殻・サンゴ・ウニなどの化石を多数含んでいます。これらの化石は、500万~250万年(鮮新世)を生きた生物が残したものです。白浜海岸の凝灰質砂岩は、「白浜層群」の一部に相当します。そもそも「白浜層群」の名は、白浜海岸にちなんで付けられたものです。「白浜層群」のほとんどは海底火山の噴出物と、そこから削られた土砂が近くの浅い海底にたまってできた地層からなっています。
「白浜層群」は、「仁科層群」・「湯ヶ島層群」に次いで、伊豆半島で3番目に古い地層です。
③ 本州への衝突(200万年前~100万年前)
「伊豆・小笠原弧」をのせたフィリピン海プレートが、北西に向かって年間4~5cmの速さで移動し、本州に衝突して合体しようとしていた時期。それまでに堆積していた地層は,衝突の影響でゆるやかに褶曲し,ゆっくりと持ち上げられはじめました。この時期、本州とかつての伊豆半島の間にあった海が干上がりはじめました。たまった泥や砂の地層のなごりは,現在の中伊豆町城(じょう)付近で見ることができます。
④ 陸上火山の時代(100万年前~20万年前)
約60万年前、伊豆半島は南海トラフにおいて日本列島の下に沈み込みました。ところが「伊豆・小笠原弧」の先端(現在の伊豆半島)は本州の下に沈み込むことができず,本州に衝突して上陸してしまいました。本州と北上伊豆半島の陸地同士が、間の海を埋め現在のような半島の形になりました。この時、初めて伊豆の大部分が陸地となり、以後はすべての火山が陸上で噴火するようになりました。
伊豆半島の北側,現在東名高速道路やJR御殿場線が走る酒匂川(さかわがわ)の谷間では,伊豆半島の衝突のもう一つの変動が起こっていました。ここには,かつて伊豆半島の前身である伊豆火山島と本州の間にあった深い海が広がっていました。その海が,伊豆火山島の接近にともなって狭くなり,北の丹沢山地や南の伊豆火山島から流れてきた大量の土砂がこの海を埋め立てました。はじめは2000mもの深さがあった海は土砂にすっかり埋め立てられ,そこに伊豆火山島そのものが突っ込んできました。海にたまった土砂は両者の間に挟まれて圧縮され、激しく褶曲し,海は干上がり,高い山地へと姿を変えました。これが松田町と山北町に分布する「足柄層群(あしがらそうぐん)」で出来た足柄山地(あしがらさんち)です。
そうして50万年前までには,伊豆火山島は本州から突き出た半島の形になり,現在見られる伊豆半島の原形が出来上がりました。現在の小山町から南足柄市にかけての酒匂川沿いのいたる所で,かつて伊豆火山島と本州の間にあった海を埋め立てた土砂がつくる地層 「足柄層群」の最下部の「日向層(ひゅうがそう)」(約210万年前)を見ることができます。「日向層」は伊豆半島と本州の間に深い海があった時代の堆積物と考えられています。
神奈川県西部から静岡県東部にかけての地域は、「伊豆衝突帯」と呼ばれる伊豆半島が本州に衝突している場所です。衝突境界は諸説ありますが、相模湾から足柄平野、山北町、小山町を経て、富士山の南東麓を通り、駿河湾に抜けています。本州と、伊豆に押し込まれて陸地になった海峡との境目の一部に「神縄断層(かんなわだんそう)」があります。左側が本州側で、非常に粒子の細かい火山灰が固まった凝灰岩。右側が伊豆半島側で、大小の石や砂から出来た礫層だ。左右で地質がはっきり分かれています。
伊豆半島北部と、さらにその北にある足柄山地や丹沢山地には海底に噴出した溶岩やマグマの破片が大量に分布し、かつては海底火山であったことが分かります。さらにその周辺には、サンゴの化石も見つかっています。したがってこれらの地層は、伊豆半島衝突よりもずっと以前に、伊豆半島よりもずっと南に位置した海底火山とサンゴ礁が、この地域に打ち込まれた証です。
神奈川県北西部に広がる丹沢山地は、元々は日本から離れた南洋火山島であり、かつてフィリピン海プレートに乗って、400~500万年前に衝突しました。いわば伊豆半島の“先輩”なので、火山の噴出物から出来ています。伊豆半島の衝突で、壮年期の丹沢山地は激しく隆起し、尾根と谷が急峻な地形になりました。(丹沢山地については、第2回『丹沢山地』 参照)
本州に衝突し,陸地となった後の伊豆半島では,あちらこちらで噴火がはじまり,たくさんの大きな火山体ができました。この時期以降の伊豆半島北部での火山性堆積物を「熱海層群」と呼ばれています。
約20万年前、半島となった伊豆半島では陸上のあちこちで噴火がおき、天城山や達磨山といった伊豆半島の骨格を形作る大型の火山ができました。
達磨山の南にある棚場山(棚場火山),そしてさらに南の猫越岳(ねっこだけ)(猫越火山),長九郎山(長九郎火山)もこのころできた火山です。箱根山の南,現在伊豆スカイラインが通っている稜線もかつて火山がならんでいた場所でした。北から湯河原火山,多賀火山,宇佐美火山という名前がついています。南伊豆町のマーガレットラインの走る高原も蛇石火山(じゃいしかざん)と呼ばれる火山がつくった地形です。
その後、箱根火山をのぞく他の火山はすべて活動を停止しました。これらの火山体は、その後大きく浸食され,かつての火口の正確な位置もよく分からないほどになりました。
⑤ 伊豆東部火山群の時代(15万年前~現在)
(図6:伊豆東部火山群(東伊豆単成火山群)の地質図)
これらの大型の火山に代わって噴火をはじめたのが,小型の火山の集合である「伊豆東部火山群」でした。日本には数少ない単成火山群の活動がはじまり、現在は「伊豆東部火山群」として活火山のひとつとなっていました。また、プレートの動きは、今も伊豆の大地を本州に押し込み続けていて、地殻変動によりさまざまな地形を形作っています。
「伊豆東部火山群」の噴火は,まず14万年ほど前に現在の天城高原の近くにある遠笠山(とおがさやま)の噴火としてはじまり,13万年前には大仁町南部から伊東市北部にかけての丘陵地に並ぶ高塚山,長者原,巣雲山(すくもやま)という3火山から成る火山列の噴火が起きました。高塚山は採石場の崖で,巣雲山は伊豆スカイラインぞいの崖で,それぞれの火山体の断面を観察することができます。多数の火山弾をふくむ縞々の地層が見られ、マグマと地下水が触れあって激しい爆発をしてできたものと分かります。そして、赤色や黒色のスコリア(暗い色をした軽石のこと)が厚く降り積もっています。
10万年前ころになると,今度は伊東市の南部で大きな噴火が相次いで起こり,一碧湖(いっぺきこ)を中心とする北西―南東方向に並ぶ火山列がつくられました。一碧湖やその南東にならぶ東大池は,およそ10万年前、激しい水蒸気爆発によってつくられた火口湖です。伊東市にある高台や,国道135号線の通る梅木平(うめのきだいら)という高台もこれらの火山によってつくられたものです。
9万年前以降になると,伊豆半島東部の至るところで火山噴火が起きるようになりました。河津町では,鉢ノ山(3万8000年前)や登り尾南(2万5000年前)という火山が噴火し,河津七滝(ななだる)をつくる溶岩流が噴出しました。東伊豆町では,堰口(せきぐち)(1万7500年前)という火山が噴火し,溶岩流が白田川に流れ込み火山礫が熱川の台地を厚く覆いました。天城湯ヶ島町では,鉢窪山や丸山(1万7000年前)という火山が噴火し,そこから流れ出た溶岩流が、狩野川に流れ込んで浄蓮の滝つくりました。中伊豆町では,地蔵堂という火山(2万2000年前)が噴火し,そこから流れ出た溶岩流が万城の滝をつくりました。1万4500年前には伊東市にある小室山が噴火し,5億5000万トンもの溶岩を流出しました。この厚い溶岩流のつくる台地の上に現在は川奈ゴルフ場が建設されています。5000年前には同じく伊東市の大室山が噴火し,5億1000万トンの溶岩を流出しました。この溶岩流がつくる台地が,現在伊豆高原だ。この溶岩流は海に流れ込み,城ヶ崎海岸をつくりました。
3200年前(縄文時代晩期)に,天城山の山頂付近のカワゴ平と呼ばれている場所で,爆発的な激しい噴火がはじまりました。噴火はまず、伊豆半島の広い範囲に軽石の雨を降らせ、そして何回も火砕流が発生しました。火砕流は主に大見川上流の谷沿いを流れ,現在の中伊豆町筏場(いかだば)付近を埋めつくしました。火砕流に伴う大規模な土石流も発生しました。火口や火砕流から噴煙として立ち昇った火山灰は,風にのって北西の方角に流され,遠く浜名湖にまで降りそそぎました。最後に厚い溶岩流が火口から北へと流れ下り噴火は終わりました。現在では、この溶岩流を採掘して,建材などに利用しています。
(カワゴ平火山の降下軽石(白いつぶつぶ)と火山灰(ピンク色または茶色の部分))
2700年前(縄文時代晩期)になると,天城山の北東斜面で再び噴火がはじまり,北西―南東方向に並ぶ火山列がつくられました。この火山列には3つの溶岩ドームがつくられました。大室山(おおむろやま)の山頂から天城山方面を見たとき,天城山の手前の山腹にごつごつしたつり鐘状の山が盛り上がっているのが分かります。このごつごつした山が,そのときの噴火で生じた矢筈山(やはずやま)の溶岩ドームです。そして,この火山列の噴火以来,1989年の手石海丘の噴火に至るまで,およそ2700年間、伊豆半島では噴火のない静かな時代が続きました。
この「伊豆半島①」の内容は、『伊豆半島ジオパーク』のホームページを参考にさせてもらいました。
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次回は 第5回「伊豆半島②」































