『関東の地質的景観』第3回 霞ヶ浦 | 奈良の鹿たち

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『関東の地質的景観』

第3回

霞ヶ浦

 

 

 霞ヶ浦ってどんな湖?

 

茨城県霞ケ浦環境科学センター)

 

霞ヶ浦は,霞ヶ浦(西浦),北浦,常陸利根川(ひたちとねがわ)の全部をふくめた湖のことです。

面積は220km²で日本第2位の広さで、平均水深は約4mで,広くて浅いという特徴があります。

広義での霞ヶ浦は西浦、北浦、外浪逆浦(そとなさかうら)の3湖を指し、外浪逆浦は北利根川で西浦に、鰐川(わにがわ)で北浦につながっています。また、外浪逆浦の先は常陸川となり利根川に注いでいます。これらを合わせた面積は220㎢で、国内の湖では琵琶湖に次ぐ2番目の大きさです。なお、狭義での霞ヶ浦は、西浦(172㎢)を指しますが、西浦だけでも国内3位の広さをもち、北海道のサロマ湖よりも大きい。

 

霞ヶ浦ができるまで

●<20万年前>

かつて関東平野一帯は、古東京湾(ことうきょうわん)と呼ばれる浅い海の底にありました。当時は気候変動が激しく、氷期と間氷期を幾度となく繰り返していました。氷期には海面が大きく下がって陸化し、間氷期になると海面が上昇し水没しました。陸化すると地表は侵食され、川とともに山のほうから運ばれてきた土砂が堆積しました。そして水没期には海底となり泥や砂が堆積していきました。これを繰り返すうちに、霞ヶ浦周辺の台地の原形が形成されていきました。この時期の堆積物を総称して下総層群(しもうさそうぐん)と呼びます。これが現在霞ヶ浦周辺に広がる標高20~40mの台地のもとになったものです。

 

●<13万~12万年前>間氷期始まる:温暖化 氷河が溶けて海面が上昇(下末吉海進)

13万年前に間氷期が始まった。気温は現在より高くなり、氷河が溶けて海水面が上昇し、海水が陸地に入り込む海進が始まりました。この海進を下末吉海進(しもすえよしかいしん)といいます。この当時、霞ヶ浦の周辺は関東平野の多くと同じく古東京湾の海底であり、関東以北の地層からは暖かい海域で生息する貝類の化石が発見されており、気候が温暖化したことが分かります。

霞ヶ浦がかつて海であった証「化石床」(茨城県霞ヶ浦環境科学センター)

下末吉海進の際、霞ヶ浦周辺は再び海の底に沈みます。このとき浅瀬に生息していたカキの化石床が、かすみがうら市崎浜の崖に露出しています。

[川尻,崎浜カキ化石床]

約13~12万年前のカキ(マガキ)の化石が密集している地層を見ることができます。

 

●<6万~3万年前>氷期:寒冷化 氷河が発達して海面が下がり陸上が進出(海退)

下末吉海進は約10万年前に終わり、6万年前 気温が再び低下すると、下末吉海進で海となった地域は海退によって再び陸となりました。その結果、下末吉期に現在の関東平野に堆積した堆積物は、比較的平坦な台地状の土地として関東平野に広がることになった。この平野はすぐに下方浸食を受け、谷底平野が形成されます。現在台地に刻まれている幅広い谷底平野の原型はこのときできたものです。西浦や、西浦に流入する桜川の低地もそのひとつで、かつては古鬼怒川が流れていました。

 

●<3万~2万年前 旧石器時代>最終氷期:寒冷化 海退期

現在の西浦一帯は広大な干潟(ひがた)となり古鬼怒川が流れていました。古鬼怒川は現在の鬼怒川とは異なり、約2万年前に流路を変え、現在の桜川に近い流路で西浦付近を経由し太平洋へ注いでいました。古鬼怒川が日光方面から土砂を運び、桜川や霞ヶ浦の湖底には、日光周辺にあった火山由来の安山岩などが堆積しています。

河川からの流入水による侵食を受け、霞ヶ浦水系の河道がほぼ現在の形となりました。高浜入り(石岡市)は、恋瀬川の活発な下刻作用によって形成された深い谷地形です。

 

●<7000~6000年前 縄文時代早期>間氷期ピーク:最終氷期後の温暖化 (縄文海進)

約1万年前の関東の海岸線は、現在とほぼ同じ位置でしたが、約6000年前の縄文時代前期には海水面が100m以上上昇し、内陸へ入り込む縄文海進が起こりました。関東地方の海水準は現在より3~4mほど高く、この時は、下妻付近まで谷に沿って入り江が湾入し(常陸川、飯沼川へも同様)、太平洋につながる古鬼怒湾(香取海)を形成しました。

関東平野の縄文の海は、東西に2つの大きな内海がありました。西部は東京湾奥から北へ、現在の荒川や中川低地に入り込んでいた奥東京湾と、東部は銚子方面から海が内陸部に深く入り込んだ入江である古鬼怒湾(こきぬわん)です。霞ヶ浦はその入江の一部で、その面積は今の霞ヶ浦の2~3倍もありました。湾岸での浸食が進み、その後沖積層が厚く堆積して、現在の霞ヶ浦・北浦の輪郭が形成されました。その後、海面が次第に後退し、湾岸には現在見られるような幅の狭い平野が形成されました。

縄文海進で出島半島南岸の崎浜・川尻地区では、この時期に生じた侵食崖がよく発達しています。その後沖積層(砂泥)が厚く堆積し、現在の霞ヶ浦の輪郭ができあがりました。

 

縄文時代、低地が海であったことが分かったのは、当時の貝塚が台地のふちに沿って分布することからです。水は今のような淡水でなく海水だった。利根川下流部の低地と台地が接する境界域の貝塚からは、アサリ、バカ貝、マガキ、ハマグリ、サルボウ、タマキ貝などの海産性や汽水性の貝類が数多く発掘されている。さらに動物や魚の骨なども見つかっています。

古代の人たちにとって,海だった霞ヶ浦がいかに重要な暮らしの場であったかを想像することができます。

 

●<4世紀~7世紀頃 古墳~奈良時代>

4世紀から7世紀にかけて霞ヶ浦周辺でも古墳が築造されるようになり、当時のヤマト王権と手を結ぶような勢力を持つ豪族があらわれるようになりました。720年代に書かれたという『常陸国風土記』によれば、霞ヶ浦は製塩が行われ、多くの海水魚が生息するような内海でした。現在霞ヶ浦湖畔の浮島村は、当時は島であり周囲は海水でした。その後、鬼怒川や小貝川による堆積の影響から、海からの海水の流入が妨げられるようになり、汽水湖となっていったと考えられています。(Wikipedia)

 

●<8世紀~12世紀頃 平安~鎌倉時代>

8世紀初頭(奈良時代初期)の海水面は、現在のより約1m低かった。10世紀初頭には現在の海水面まで上昇しました。11世紀前半には現在の海水面より約50㎝低くなった。12世紀初頭に現在の海水面より約50~60㎝高くなりました。日本では平安海進と言われ、文字での記録が残る時代では最高水準となっていました。

現在の霞ヶ浦(茨城県)や北浦(茨城県)、牛久沼(茨城県)、手賀沼(千葉県)、そして千葉県の水郷一帯は、今の利根川下流に広がっていた古鬼怒湾(香取海)の入り江のひとつとして香澄流海(かすみながれのうみ)と呼ばれていました。水は淡水と海水が混じり合った汽水であったと考えられています。その面積は、今の2~3倍あり、海水が容易にさかのぼる大きな湖でした。その後、鬼怒川や小貝川が運んできた土砂などが現在の西浦や北浦の湾口に堆積し、さらに海退によって徐々に陸地化し、縮小していったと考えられています。そして、印旛沼や、隣接の手賀沼などのような小さな入り江は陸化から取り残され湖沼化していきました。

室町時代頃まで古鬼怒湾(香取海)は完全には淡水化せず、鬼怒川河口は現在の河内町から稲敷市柴崎付近でした。また現在の鬼怒川・小貝川下流域は広大な湿地帯(氾濫原)が形成されていました。

 

●<17世紀~19世紀頃 江戸時代>

古来、利根川は太平洋ではなく、東京湾に注いでいました。現在のような流路となったのは、数次に渡る瀬替えの結果で、近世初頭から行われた河川改修工事は利根川東遷事業と呼ばれ、東へと流れを移し変える大工事でした。それまでの東京湾に向かっていた流れから、現在のように千葉県銚子市で太平洋に注ぐようになりました。それによって、利根川の水は霞ヶ浦方面にも流れ出すようになりました。このことで、霞ヶ浦から利根川を遡り、江戸川を経由して江戸に至るという水運の大動脈が出来ました。霞ヶ浦周辺の産物を江戸へと送る流通幹線となり、霞ヶ浦や利根川は東北地方からの物産を運ぶルートにもなったため河岸(かし)と呼ばれる港は大いに繁栄しました。

また、この大工事で霞ヶ浦は淡水化していき、生息する魚介類も海水から汽水・淡水に生息するものへと変化し、漁業も現在のものに近いワカサギやコイ、フナなどを対象とするものが定着していきました。

東遷事業の目的は、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進すること、舟運を開いて東北と関東との交通・輸送体系を確立することなどでした。

 

 

 

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   次回は 第4回「伊豆半島①」

 

 

(担当P)

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