『富士山 地質的景観』 第7回 富士山周辺③(中央) | 奈良の鹿たち

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『富士山 地質的景観』 

第7回

富士山周辺 ③

 

【中央】

 

⑫<大室山(おおむろやま)・長尾山>

(大室山)

富士山最大の側火山で標高1468m。約3000年前に噴火したスコリア丘(スコリア:マグマが吹き上げられて飛散冷却してできる岩塊や火山礫や火山灰の粒子のこと)。 

なだらかな富士山の麓にあるため外見は独立峰に見え、青木ヶ原溶岩の中に浮かんだ小島という感じ。山頂の噴出口は直径500m、矩形360m、火口の深さ120m。

(長尾山)

平安時代初期の864年(貞観6年)、富士山の貞観大噴火で多量の溶岩を流し、西湖、精進湖、本栖湖を誕生させたスコリア丘の側火山。

⑬<船津体内樹型(ふなつたいないじゅけい)

富士河口湖町船津にある船津胎内樹型は、およそ1000年前に八合目付近から流れ出た「剣丸尾溶岩流」の上にできた森の中にあります。船津胎内樹型は全長約70m、長いもので約20mの樹型が複数本組み合わさり、一帯で最も大きな溶岩樹型です。なお、周辺には大小100を超える溶岩樹型が点在しています。

富士山から流れてきた溶岩が樹木を巻き込んだまま固まり、その後に中の樹木が燃えつき朽ちて樹型の空洞が残ったものです。縦型や横型、流木型など様々なタイプが見られますが、船津胎内樹型は横倒しになった複数本がつながってできた複合型です。

入口から少し入ったところにやや広い空間があり、天井には溶岩鍾乳石がいくつもできて、穴の壁にそって垂れています。その様子がまるで肋骨のようであることから、この穴は人の胎内に見立てられ、船津胎内神社として信仰の対象にされてきました。

⑭<大沢崩れ(おおさわくずれ)

富士山の山体の真西面側にある大沢川の大規模な侵食谷のことをいいます。

最大幅500m、深さ150m、頂上の火口直下から標高2200m付近まで達します。

大沢崩れでは、現在も毎年平均約15万㎥の土砂が崩れ落ちています。崩壊が更なる崩壊を呼ぶため、崩壊地は拡大する一方です。現在、この土石流が下流の田畑や町まで流れてこないように、さまざまな対策に取り組んでいます。

大沢崩れの形成の年代は明らかではありませんが、堆積している古い土石流の中に埋もれていた木片を年代測定した結果、約1000年前に大規模な土砂移動があったと推定されました。

なお、このような侵食谷の発達は別に異常のものではなく、現在の富士山は地形の輪廻からすると幼年期であり、やがては風雪などによって侵食が進み、開析された山体となっていく運命にあります。

⑮<宝永(ほうえい)火口・宝永山>

富士山の南東斜面、標高約2100mから3150m地点にかけて、3つの大きな火口が北西-南東方向に並んでいます。これが、富士山の噴火史上もっとも激しい噴火であった宝永大噴火(宝永4年、1707年)でできた宝永火口です。
3つの火口は山頂側から順に宝永第1、第2、第3火口と呼ばれています。一番大きい宝永第1火口は長径1.3km、短径1kmの楕円形で富士山の山頂火口より大きいです。
噴火は約2週間続き、第2・第3火口からの軽石噴火で始まりました。その後第1火口からスコリア(たくさんの気泡をふくむ暗色の火山)を放出する噴火が約半月続いて、ようやく終息しました。この噴火では、わずか半月の間に0.7㎥ものマグマが噴出したと考えられています。すり鉢状の巨大な宝永火口が、その噴火のすさまじさを物語っています。

宝永火口の北東側に沿った形で、赤褐色の岩を頭に載せた小山があります。この山が宝永噴火の際に誕生した宝永山です。

宝永山の頂上近くに周囲とは特徴の異なる「赤岩」と呼ばれる岩場があります。
赤岩は黄褐色を帯びた硬い地層からできており、下から突き出たような分布をしています。そのため赤岩は、地下に隠れている古い山体の一部が、宝永噴火の際にマグマの突き上げによって隆起し、地表に現れたものと考えられてきました。ところが、2018年9月の台風が宝永山の表面をおおっていた転石や砂を洗い流し、それまで地下に隠れていた部分があらわになりました。そこでは、一見古そうに見える赤岩の地層が、新鮮な黒い地層に変化している様子が分かりました。黒い地層は、宝永噴火で降り積もった火山礫や火山弾だったのです。赤岩の地層が黄褐色で古そうに見えるのは、噴火時の高熱と水分によって変質を受けたからとみられます。さらに調査を進めると、宝永山山頂近くの赤岩だけでなく、全体が宝永噴火で降り積もってできた山であることが明らかとなりました。

⑯<二ツ塚(ふたつづか)

二ツ塚は、約2000年前の噴火で生まれた2つの側火山です。西側の上塚が標高約1900m、東側の下塚が標高約1800m。両者とも、噴火で放出されたスコリアが降りつもってできたスコリア丘という小火山で、同じ割れ目火口の上に同時にできたと考えられています。

⑰<太郎坊(たろうぼう)のスコリア層>

御殿場口登山道の太郎坊には高さ10mあまりの崖があり、地層断面が露出しています。富士山の噴出物が層になって堆積しており、過去およそ約1万年間にわたる富士山の噴火の歴史を観察することができます。

最も上層にあるのが宝永噴火で噴出した宝永スコリア層で、その厚さは5m以上に及びます。その下に30枚ほど重なる層の上部にあるのが、二ツ塚の噴火で堆積した二ツ塚スコリアです。その下位には湯船第2スコリアがあります。これは約2200年前に、富士山の山頂火口から噴出したものであり、それより新しいスコリアは全て側火山からの噴出物です。湯船第2スコリアの下位にあるのは、3000年ほど前の火山礫・火山灰層、そして最も下位に1万年ほど前の三島溶岩が観察できる所もあります。

⑱<富士山グランドキャニオン>

富士山東裾の側火山の一つ「小富士」の東側山稜を下ったところに、いくつもの火山灰堆積層が断崖絶壁のようになって連なる、通称「富士山グランドキャニオン」があります。

崖は長さ約300m、高さは平均約50mで、最も高いところでは70mを超えます。
この地層は、過去数万年分の噴火や土石流の堆積物からなり、約2900年前に起きた富士山東斜面の山体崩壊による地層もはっきりと見ることができます。

1707年(宝永4年)の宝永の大噴火で、火口から10km東方の須走村でも黒色の火山礫(宝永スコリア)が3mも堆積しました。「富士グランドキャニオン」でも、火口から近いこともあって4〜5mの堆積があります。
さらにその下に2000年ほど前の二ツ塚の噴火で堆積した二ツ塚スコリア、その下には2200年前の富士山頂から出た湯船第2スコリアと重なっています。「ふじあざみライン」周辺の地層には、最下層の1万年前の三島溶岩流まで、富士山の歴史が層になって刻まれています。

それが水の浸食や「雪代(ゆきしろ)」で削られて谷が形成されたのが「富士グランドキャニオン」です。

雪代」というのは富士山での独自の呼び名で、正式には「スラッシュ雪崩」といいます。土砂混じりの雪崩のことをいい、雪崩が山肌のスコリアを巻き込みながら山麓へと流れ出したものです。はじめは溶け出した雪と雨が混じった水分の多い雪崩ですが、流れ落ちるに従って山腹の斜面にある砂や岩石を巻き込み、土砂混じりの雪崩となります。流下する途中で雪がすべて溶けてしまうと、流動性の高い土石流となって流れ続けます。ときには山麓の集落にまで到達し、村を埋めつくしてしまうこともあるため、麓の人々は昔から雪代をおそれてきました。
富士山グランドキャニオンでは、その雪代のエネルギーの大きさを見ることができます。

⑲<小冨士(こふじ)

延暦大噴火(800~802年)の際、この樹林帯でも火山噴火があり砂漠化しました。その火山跡が小富士です。

 

 

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次回は 第8回(最終回)「富士山周辺④北部・西部」

 

 

(担当G)

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