『全国の焼き物』
第25回
万(萬)古焼(ばんこやき)
万(萬)古焼は、陶磁器・焼き物の一つで、葉長石(ペタライト)を使用して耐熱性に優れた特徴を持ちます。陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(炻器)に分類されます。
三重県四日市市の代表的な地場産業であり、1979年(昭和54年)から伝統工芸品に指定されています。
(特徴)
その耐熱性の特長を活かした無釉薬の紫泥(しでい)の急須や土鍋が有名であり、特に土鍋の国内シェアは、70~80%を占めると言われています。
また、豚を模った蚊遣器(かとりき)「蚊遣豚」でも有名です。四日市市内の橋北地区と海蔵地区で萬古焼が盛んです。
(歴史)
江戸時代、元文年間(1736年〜1741年)、桑名の豪商 沼波弄山(ぬなみろうざん)が、朝明郡小向(あさけぐん おぶけ)で窯を開きました。弄山が、自身の作品に後世に伝わることを願って「萬古」または「萬古不易」の銘印を押したのが名前の由来です。弄山の時代の作品は、「古萬古」と呼ばれます。作品はエキゾチックでインド風の人物、鳥、動物をモチーフにしています。
弄山の没後、一時途絶えるが、江戸時代後期 天保年間(1830年〜1843年)に森有節(もりゆうせつ),千秋の兄弟によって再興されました(有節萬古または桑名萬古焼)。その特徴は、華麗にして精緻で復古的な大和絵を描いたところにあります。また、「腥臙脂釉(しょうえんじゆう)」という、焼くと鮮やかなピンク色になる絵具を開発しました。
さらに、木型での成形により、薄手で精巧な急須を量産しました。
射和村の竹川竹斎は射和萬古を、沼波弄山の弟子の沼波瑞牙が津で安東焼(後の阿漕焼)を興した。現在の万古焼の基礎となるのが、明治3年(1870年)に東阿倉川に窯を開いた山中忠左衛門らが始めた四日市萬古焼です。
山中忠左衛門は、毎年の水害に悩む村を見て、私財をなげうって20年に及ぶ研究の末に、開窯にこぎつけた。忠左衛門は製法を広く公開し地域住民への製作指導を行いました。
この時期は、洋皿やコーヒーカップ等の洋食器の研究や、海外輸出も行われるようになり、万古焼は多量に生産されました。その結果、明治中期には陶土として使っていた垂坂山の白土が激減し万古焼は存続の危機を迎えました。しかし、垂坂山の赤土が焼締め陶に向いていることが分かり、以後急須や土鍋など赤土の製品作りが中心となりました。
輸出の最盛期であった1980年(昭和55年)には出荷額が202億円に上ったが、1998年(平成10年)には85億円まで落ち込みました。一方国内向けの出荷額はほぼ横ばいを続けています。
2016年(平成28年)5月26日から27日にかけて開催された第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)では、萬古焼の盃が首脳陣の乾杯の際に使用されました。
(伊勢志摩サミットで使われた万古焼の盃)
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次回は 第26回(最終回)「美濃焼」
(担当 A)
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