『全国の焼き物』第26回(最終回)美濃焼 | 奈良の鹿たち

奈良の鹿たち

悠々自適のシニアたちです

 

『全国の焼き物』

第26回(最終回)

美濃焼(みのやき)

 

 

 

美濃焼とは、岐阜県の東濃地方(土岐市・多治見市・瑞浪市・可児市)で焼かれた陶磁器の総称。

1978年(昭和53年)に、通商産業省伝統的工芸品に認定されています。

美濃焼は、日本一の陶磁器の産地として知られていて、日本全国で生産される食器類のうち何と約60%を美濃焼が占めています。

 

(特徴)

美濃焼は、その多様さが何よりの特徴です。また、明治時代以降は技術革新により安価かつ大量生産できる技術を構築してきました。そのため、定まった製法やスタイルなどがないため、ひと口に「美濃焼」といってもそこには多種多様な焼き物が含まれます。 九谷焼、備前焼などといった各地の焼き物が特定の製法で作られているのとは対照的です。これにより特徴がないことが特徴と言われることもありました。

安土桃山時代に、そのわずか30年ほどの間に「美濃桃山陶」とも呼ばれるそれまでになかった自由な発想で登場し美濃焼の黄金期を迎えました。美濃焼の代表的な志野(しの)・織部(おりべ)・黄瀬戸(きせと)・瀬戸黒(せとぐろ)の四様式は、釉薬による色の表現の豊かさを楽しませてくれます。

中でも武将でもあり茶人でもあった古田織部(1543~1615)が創意工夫を凝らした「織部好み」は有名です。

(志野)

志野の練乳のようなやさしい白色の肌は、「もぐさ土」と呼ばれる土に白い長石釉を器にたっぷりとかけることによって生み出されます。薄紅の火色の貫入 (かんにゅう)が現れることもあるが、これは焼成中に素地から自然とにじみ出たものです。ぽってりと厚めに白釉(しろぐすり)をかけることで、貫入(かんにゅう)や小さな孔が出ることがあり、素朴な雰囲気を持っているのが特徴です。

長年日本人が憧れてきた念願の「白い焼き物」の誕生であり、従来の型押しや彫りでなく、日本で初めて素地の上に直接絵付けすることを可能にした画期的なうつわでした。

茶碗を中心に、水指や香合など茶道具に多く用いられ、無地志野、絵志野、鼠志野、紅志野、練込志野などいくつか種類があります。

志野茶碗の「卯花墻」(うのはながき)は、日本製の焼物では数少ない国宝指定物件のひとつです。白濁半透明の志野釉が厚くかけられた肌は百草土(卵の殻のような色)をしており、口辺や釉薬の薄いところは赤みをおびています。

もとは豪商の冬木家が所有していたが、1890年には大阪の山田家に移りました。当時の価値にして1000円(現在の価値にしておよそ2000万円)の値がついたと書物『大正名器鑑』に記されており、そのことからも卯花墻の評価の高さが伺えます。

(織部)

安土桃山時代を生きた武人にして茶人であった古田織部が、自身の好みに合わせて造らせたと言われます。織部には多彩な釉薬が使われているが、最も織部らしいのは、銅緑釉の鮮やかな緑です。自由奔放でゆがみも良しとする大胆な造形の景色は「織部好み」と呼ばれます。

織部黒、黒織部、総織部、鳴海織部、志野織部、弥七田織部、青織部、赤織部、唐津織部など色も多彩で、形や模様も様々なものが生み出されました。

(黄瀬戸)

室町時代末期から安土桃山時代に作られてきた黄瀬戸は、美しい淡黄色の肌が特徴。灰釉の一種である黄褐色釉が使われています。薄づくりのうつわに様々な草花の文様や線彫りの模様を描き、そこに現れた緑色の班である胆礬(たんばん)を楽しむ「あやめ手」のほか、褐色の焦げ厚みがあり、ほとんど文様や焦げのない「ぐいのみ手」があります。

(瀬戸黒)

瀬戸黒は、鉄釉(てつぐすり)をかけて1200度前後の高温焼成中の器を、頃合いを見計らって炎の中から取り出して水に浸けるという劇的な方法でつくられます。灼熱の窯の中で溶けていた鉄釉が、外気で急激に冷やされると、漆黒に発色する。これを「引き出し黒」といいます。

本来の「瀬戸黒」とは装飾が施されず、底が平たく半筒になったもので、高台の低い茶碗に限定されています。
古くから人々は瀬戸黒のもつ漆黒の美しさに魅了されてきました。加えて、黒いのに心地良い柔らかみを持っているところが選ばれてきた理由なのでしょう。

 

(歴史)

美濃焼の歴史はとても古く、その起源は1300年以上前の奈良時代、朝鮮から伝わった焼き物の祖である須恵器窯からとされるのが一般的。

平安時代には灰釉陶器が焼かれ、一般民衆のための無釉の山茶碗なども焼かれていたようです。鎌倉時代以降、古瀬戸系施釉陶器を焼く斜面を利用した窖窯による陶器生産が開始されました。最初は鉄釉や灰釉などの初歩的な施釉陶器だけでしたが、次第に天目釉や黄瀬戸の茶碗、片口などの食器類が焼かれるようになりました。室町時代の末期には、地元の土を使っての手ろくろ成形や、木ベラでの装飾技法も発達し、やわらかな土味を生かした美濃焼の特徴があらわれるようになりました。
戦国時代には、戦火を逃れて瀬戸から美濃に陶工たちが流入しました。これを「瀬戸山離山」といいます。15世紀初頭に土岐市域に窯が散在的に築かれました。

美濃焼の黄金期は安土桃山時代(1573年〜1603年)とされます。茶の湯の流行、千利休や古田織部のような当時の茶人らの活躍もあり、今日の美濃焼の基本の様式である黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部が「美濃桃山陶」として誕生したのでした。ゆがみをあえて良しとする斬新な姿形、豊かな色彩の美濃焼は当時の人々にとって革命的であったことでしょう。

江戸時代になると、窯体構造は、大窯から連房式登窯となり、志野焼に加えて織部焼の優品が生み出されました。江戸時代中期に「御深井焼(おふけいやき)が焼かれました。御深井焼とは、始まりは名古屋城内の御深井丸で焼かれた灰釉系の焼物のことをいうが、通常は江戸時代の美濃焼に属するものをいいます。長石に木灰を混ぜて作った釉薬が焼成中に釉薬に含まれている鉄分によって淡緑色に発色します。青磁を感じさせる焼物です。

江戸時代末期には磁器の生産も始まりました。そして後に陶器に代わって磁器の製品が美濃焼の主力商品となっていったのです。
昔は茶陶の歴史に大きな影響を与えた志野や織部を生んだ美濃焼ですが、時代の流れとともに茶陶から日常雑貨に移行されてきました。現在では和食器中心の陶磁器製品だけでなく、マグカップやティーポットなどの洋食器や、工業用タイルなどの生産も盛んに行なわれています。

 

(多治見市美濃焼ミュージアム)

 

 

 

 

 

====================

『全国の焼き物』全26回 完

 

 

(担当 A)

====================