『全国の焼き物』第24回 益子焼 | 奈良の鹿たち

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『全国の焼き物』

第24回

益子焼(ましこやき)

 

 

 

益子焼とは、栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器

 

(特徴)

益子焼の特徴で面白いのはゴツゴツとした「土の質感」があります。益子の土は、栃木県内で採れる新福寺粘土などをベースにした砂気が多く粗い調子の胎土で粘性が少ない。その為、気泡が多く、焼くと割れやすく、重いという欠点があり、細かい細工にはあまり向かず、どうしても肉厚に作られました。土色も焼成後は赤っぽくなりました。そのぽってりとしたフォルム、粗い土の質感が伝わってくる素朴な雰囲気を持っています。

益子焼の特徴は釉薬です。土に鉄分が多いため焼き上がりは黒っぽく、その上から茶色い「柿釉」や白釉をかけて仕上げるのが一般的です。

最も基本的な釉薬(ゆうやく)は漆黒釉や赤茶色の柿釉、飴色(あめいろ)を出す鉄釉(てつゆ)です。益子焼の釉薬は、石材粉や古鉄粉が釉薬として使用されています。中でも柿釉をかけた益子焼は土の素朴な風合いと温かみのある茶色釉薬が絶妙に引き立てあった、温かみのある風情を持っています。

(漆黒釉)

(柿釉)

(鉄釉)

他にも犬毛筆で色付けを行っていることも特徴です。この犬毛筆で色付けを行うと、重厚で肌触りもぼってりとした色合いになります。

(犬毛筆絵)

こうした昔ながらの施釉は土鍋や土瓶、片口といった、肉厚な陶器に使われます。

民芸運動以来、濱田が得意とした杓掛け・流し掛け・掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが有名となりました。他にも信楽焼流の絵付けを施した山水土瓶や、呉須(コバルト顔料)を使った陶器も多い。

民芸運動のなかで発展してきたという歴史があるため、形式にとらわれない自由な作風のものが多く、ほかの焼物とは一味違う独特の魅力があります。

 

(歴史)

益子町の南部には丘陵地が広がり、その一部から陶土が採れ、薪に適した赤松にも恵まれていたことから、古くから須恵器が作られてきました。

その証拠に、丘陵地帯からは7世紀~8世紀に使われていたとされる窯跡がいくつか発見されています。しかし、その後、鎌倉時代になると、須恵器の生産は廃れてしまいました。

益子に窯の火が再び灯されるようになったのは、江戸時代の終わりの1853年嘉永6年) のことで、常陸国笠間藩(笠間市)で作陶を学んだ陶芸作家・大塚啓三郎(おおつか・けいさぶろう)が益子の土が焼き物に向いていることを発見し、根小屋窯を築いたのが、今日の益子焼のはじまりだといわれています。

益子焼の陶土は、豊富にあるものの肌理が粗く精巧な器を作るには向かなかったため、当初の益子焼は主に水がめ・火鉢・壷・土瓶・土鍋などの日用品として製作され、江戸にまで普及するようになっていました。

そのころ益子を治めていた黒羽藩は、益子焼を殖産事業として援助し、黒羽藩の専売品となるほどに発展しました。

1871年(明治4年) の「廃藩置県」後は御用窯から民窯へ。藩からの支援はなくなったものの、窯数は増え続け、鉄道の開通も追い風となって順調に販路を拡大していきました。

一時期はアメリカにも輸出するようになったが、その需要の高さが裏目に出て粗悪品の乱売も目立つようになり、益子焼の信用は落ちてしまいました。

そこで、1903年明治36年) に益子陶器同業組合と益子陶器伝習所が設立。益子焼とは何なのかの見直し、信用回復と職人育成に取り組んでいきました。その結果、明治30年代には、窯元数は50以上となり、益子焼は再び盛況を取り戻しました。

しかし、この好況はそう長くは続きませんでした。

明治末期から大正時代にかけて、人々の生活様式が大きく変化しました。台所で使用される燃料も木炭から石炭ガスへと切り替わっていき、高熱に耐えられない益子焼はアルミニウムなどの金属製のものに取って代わられたのです。

1920年大正9年) には一時的に製造が中止されるほど、益子焼は不況に陥ってしまいました。そんな中、1923年(大正12年) 9月に起きた関東大震災で状況は一変しました。大消費地 東京での台所用品の需要が急増し、しばらくの間、供給が追いつかないほどの活況を呈しました。

1924年(大正13年) には濱田庄司が益子に移住。柳宗悦らと民藝運動を提唱する濱田は、益子焼に「用の美」を見出し、茶器や花器など民藝品としての益子焼の作陶に励みました。

民藝とは「自然から生み出された健康な素朴な活々とした美」を求めました。それまで、「下手物」と軽視されていた日用品に美的な価値を見出しました。

濱田の存在とその作品は、民藝運動の高まりとともに益子焼を世に広く知らしめただけではなく、地元の陶芸作家たちにも多大な影響を与え、益子焼は日用雑器から民藝品へと徐々に移り変わっていきました。大鉢や壷に釉薬を豪快に流し掛けた作風は素朴でありながら野趣にとみ、見るものを圧倒しました。そうした転換の背景には、日本人の生活様式の変化や科学技術の進歩による影響も大きいところがありました。

1950年昭和25年) ごろを境に、これまでの益子焼を支えていた日用雑器の需要は減っていき、窯元はその変化に応じるべく、生産の中心を民藝品へと転じていきました。

高度経済成長期に入ると、都市化が進む一方で、伝統文化や里山への郷愁が強まり、1950年代後半から70年代にかけて全国的に民藝ブームが起きました。

それをきっかけに、益子を目指す作家は増えていった。加守田章二 かもだ・しょうじ) もその一人。1959年(昭和34年) に益子で窯を築き、その創造性は民藝一色だった益子焼に、濱田とは別の潮流を形成しました。

1979年には通商産業省(現、経済産業省)より、伝統的工芸品に指定されました。また、イギリスの陶芸家バーナード・リーチなどの普及活動があります。

現在では約250もの窯元があります。

幅広い世代の陶芸作家が作り出す益子焼の姿は多種多様で、濱田が大成した伝統的な民藝陶を意識したものもあれば、自由な創作陶芸も。その千差万別さは、現在の益子焼の特徴のひとつともいえるでしょう。

 

(濱田庄司とバーナード・リーチ)

 

 

 

 

 

 

 

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次回は 第25回「万古焼」

 

 

(担当 A)

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